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しかし、その迷宮には猫が居た

 江戸と呼ばれる街の東に大川という川が流れている。この川のほとりにある月巡神社には、古い涸れ井戸があった。


 井戸とは言っても人が落ちぬように石組みで囲ってあるだけで、人が入れるほどの大きさでは無いし深さもない。壁面の凹凸も大きく、少し器用な者なら楽に上り下りが出来てしまうだろう。そのせいで、地下に巣を作ったネズミ達はどうやらここを出入り口としているようなのだ。

 だからこそ、この界隈の長屋では皆何匹もの猫を世話している。さもないと米も道具も何もかも齧られてしまうのだから。


『おい、クロ。こんなとこにいったい何があるってんだぃ』

『この奥! ぼくの仕留めたネズミのいたトコだよ』


 この涸れ井戸の底に、蟻の巣穴のように入り組むかつての水路が残っていた。その中を三頭のネコ達が進む。先頭を弾むような足取りで先導するのは、この時代の猫には珍しく真っ黒な毛色と長い尻尾を持つ黒猫のクロだ。

 クロは自分に付いて来る二頭の姿を見て、ふにゃりと微笑む。


 親も無くある日路地裏に現れて腹を空かしていた黒猫が、この二頭に出会えたのは本当に運の良い事だった。

 ネズミを狩る猫は、ネズミという害から人を守る守り神である。その為、人は貧しい暮らしの中であっても猫には食事を振る舞う。たとえ自分の食事を少し減らすことになっても、猫はキチンと持て成すものなのだ。だからこそ、猫もまた人を守る。それは忠誠という事ではなく、御恩と奉公に近い、対等の立場での契約の様な物だ。

 そんな関係であるからこそ、猫は余所者が勝手に飯を食う事を許さない。この土地を守る者への筋も通さずに報酬だけをかすめ取るような泥棒猫はまっとうな猫たちからつまはじきにされるのだ。


 そのような流儀を知らぬ常識知らずの猫はほぼいないのだが、黒猫のクロはその常識知らずだった。ふわふわした毛玉の様な兄姉達の元を離れ、大きな優しい手で撫でられて箱入りとして育ったクロは猫の作法を知らずに暮らしていたのだ。

 そして庇護者とはぐれて腹を空かし、あごを地べたにくっつけている姿を見た人間の娘が食事を振る舞った。

 人間の娘にとっては大したことではなかっただろう。クロにとってはありがたい施しだった。だがその土地の猫たちにとってはシマを荒らす行為だったし、何より猫が一方的に施しを受けるのはメンツが立たぬ。


 そうして何も知らぬクロが地元の猫会議にて廻状を回され、追放の憂き目にあおうとしていたのを救ったのが戸無し長屋のハチワレ猫のハチと、佐賀藩江戸屋敷の守り猫のトラだった。


 彼らは知って犯す罪と違う、知らずに犯す罪は悪ではなく弱さであると告げてクロを庇ったのだ。弱い者をただ弱いという事だけを理由に虐げるのなら、猫は二度と人の守護者を名乗れぬであろう、と。


 ハチは瀬戸物を扱う商人と暮らしていた。だが、黒地に白のハチワレと呼ばれる模様が「壺や皿を商っているのに鉢割れじゃ縁起が悪い」と放り出された猫だ。

 そのハチを拾ったのが、焚きつけにする薪を買う金も無くて戸板を外して燃やしたが盗まれる物が何一つ無いのでそのままにしているという、筋金入りの貧乏長屋の住人たちだった。

 大工は自分の古い手ぬぐいをハチに譲ったし、アサリ売りは貝以外の網に掛かってしまった小魚をハチの為に貰ってきてくれたし、傘張り浪人は米粒から作った糊を少し舐めさせてくれた。

 人ですら貧しい中でも手を取り合って猫を守るのだ。猫が猫を守らなくてどうするというのが彼の理由だ。その為に猫会議に向こうを張る気概が彼にはあった。


 トラは遠い遠い国から江戸詰め藩士に連れてこられた老猫だ。だから地縁の無い中で暮らす事の辛さを知っていたし、何より彼の館の居住者たちは恥を知る物だった。侍にとって幼い者を守れぬ事は正しい事ではなかった。


『おいクロ、何ボンヤリしてやがる。お前さんが案内してくれないと困るだろう?』


 後ろからクロをせっつくのが戸無し長屋の兄貴分のハチだ。彼はいつも皆が腹を空かせていないか気にする所があるのだが、食の細いクロはいつまでたっても首も後ろ脚も細いままなので、最近はいつもクロを連れ歩いては気に掛けている。


『ハチよ、せかさずとも良い。ここにネズミどもの尻尾の跡がある。随分高い位置にあるから大きいのは間違いないようだが、獲物を持ち出さねば猫会議の皆も納得せぬであろう。クロ坊の身体よりも大きいというのは言い過ぎにしても、咥えて運べぬほどなのは想像がつくから帰りの道のりは大変であろう。のんびりと行くとしよう』


 マイペースなクロは、後ろで話をする二頭を一切気にせず、長い尻尾を揺らしながら大きな岩に飛び乗るとその岩陰に身を沈めた。


『ここ、ここの割れ目を通ると広くなるんだよ』 


 ハチとトラはクロに続いて岩に飛び乗ると、丸い目をさらに丸く見開いて驚いた。


『この枯れ井戸はすっかり歩いたと思っていたんだがね』

『うむ。儂も知らなかった。さてはネズミ共め、穴を掘り広げおったな。これはクロのお手柄じゃ』


 岩肌に顔をこすり付けるようにして狭い裂け目を抜けると、小部屋ほどの広さに広がっていた。


『こいつは元々あった場所とつながったのかもしれませんな』

『水の匂いに混じってネズミの匂いもずっと濃くなった。やつらめ、儂等の目とヒゲの先でようもぬくぬくと増えおった。狩りつくしてくれるわい』


 クロの後に続いて枯れた水路を進むと、暗闇の中から大きな塊が飛び出してくる。


『デカい! クロ、気をつけろよ』


 つやつやと脂ぎった胴回りをぶるんと揺らして走る姿は、森にあっては樹上に住み街にあっては天井裏を駆ける小柄なクマネズミ族とは似ても似つかぬ巨体。悪臭を纏い、湿った地を好み、醜く汚れ奇声を上げるドブネズミ族に間違いなかった。

 このドブネズミどもは病を運び、水を汚すネズミ族の中でも特に忌まわしい特性を持っている。肉食なのだ。時には共食いすら行う獰猛で貪欲な性質を群れを成して弱いものに向ける。子猫や人の子などの弱い生き物ににとって危険となる生き物なのだ。


 クロは体の大きさだけなら同等だろうが、重さは倍にも達しようかという巨大の突進をひらりと舞う様に躱すと、一瞬だけ弓のように身を屈めて背後から飛び掛かった。


『いかん、クロ坊!』


 獣の戦いでは重い方が有利だ。

 それは、首を噛んで抑え込む事が決定打になるからだ。爪はよほどの体躯の差が無ければ仕留めるには至らず、抑え込んで首の骨を噛み折るか、振り回して叩きつける事で息の根を止めるのが定石だからだ。


『お主では無理じゃ、儂と替われっ!』


 戦いを知らぬクロに身のかわし方と懐への潜り方を教え、死中に活を見出す胆力を鍛えさせたのはトラである。紙一重で躱せばそれだけ自分の牙と爪は相手に近くなるからだ。クロは見事に躱したが、その後に高く跳んでしまったのがよろしくない。

 空中にあってはどんな生き物も自由は効かない。着地の時には体も固まる。ネズミに攻撃を避けられたら隙を晒す事になり、例え首を押さえたとしても体重差があれば振り回すのは難しい。クロには荷が重いとトラは判断した。


 しかし、その予想は覆される。

 クロはドブネズミの突進を交わして高く飛び掛かると、その爪から蒼く輝く刃を伸ばしてネズミの脳天を串刺しにしたのだ。

 長く伸びた刃は大地に突き刺さり、ネズミは自らの速度を緩めることなく突き進むと左右真っ二つに分かれて大地にその骸を晒した。


 輝く爪を消し、にゃん、と小さな勝ち鬨を上げるクロにトラが詰め寄る。


『クロ坊よ、それは霊爪か』

『ん? いろいろ工夫しているうちに出来るようになったんだ。便利だから使ってる』

『ばかもん。そんな事ができるならできると言わんか』

『知らないよ、できるようになったばっかりだもん』


 いつもの言い合いを始める師弟だが、ハチはその二人の背後に目を向けて叫ぶ。


『囲まれているぞ!』


 暗闇の中に赤く光る無数の目が浮かび上がっていた。



 時は慶長三年。かの関ケ原の合戦を数年後に控えた江戸の街の一角で、国の行く末を左右する出来事が起きようとしていた。

 人間達のあずかり知らぬ所か、本猫達すらも気付かぬままに。



 その頃、江戸を離れた暗く深い洞穴の中で、一人の陰陽師が何本もの刀で串刺しにされ末期の呪詛を吐いていた。


「儂らを殺したところでもう遅い。呪いの陣は成った。徳川は江戸と共に滅びるのじゃ!」


 醜く叫ぶ男の喉にクナイを突き立てると、術士達を殺し尽くした男達は、はて困った事だと呟いた。


「この男の話、真かと思うか」

「信用には足らんが噓をつく理由も無かろう。報告をした上で、真実であるとした場合の対策を練る」

「しかし、術者を殺し、五芒星の頂点の呪物を破壊してなお消えぬ呪詛陣とはどうしたことか」

「陣の中心に、維持するための術者か呪物がもう一つある……としたら?」

「江戸の街中にかね?」


 二人は江戸の地図を広げて思案する。


「そのような物が作れる場所は無い」

「江戸城地下のものはどうか」

「それならば我らがそれを見落とすはずも無い」


 しばしの沈黙の後、片方の男が膝を叩いた。


「ならば、ヒトが入れぬほど小さいとしたら」

「そのような場所にどうやって呪物を運ぶのだ」

「猫は顔の幅が入る場所には入り込めるらしいが、人は肩と腰が邪魔をする。手足を切り肩と腰を砕いて厠や空気穴から侵入する忍びがいると聞いたことがある。そのような忍びならば」

「だとしたら我らには手が出せぬぞ。小さくなるとでも言うのかね?」

「必要ならば」


 二人の男は風の様にその場を去った。

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