文章力雑感〜果てなき探求への招待〜
「文章力とはなにか」
この問いはありとあらゆる分野で、答えが言及されている。そして、ありとあらゆる場所で議論されている。
さまざまな意見。さまざまな議論を見たり、聞いたり、読んだりしていくうちに共通する答えが浮かび上がった。
それは「正確に伝わること」である。この答えに関しては議論を待たないだろう。
しかし、ふと疑問に思ったことがある。それは「文章力とは、正確に伝わること」という条件ならば、求められる文章力は時代や環境によって、異なるのではないだろうか。
時代でいえば、明治時代や大正時代で易しい言葉とされたものが現代では難しく感じられることが多い。
明治時代から昭和時代(戦前)までの著名作家の作品を読んでみた。
所々、現代ではより易しい表現にするべき、あるいは、不適切になってしまっている表現が見受けられた。
現代ではタブーとされる表現、言い換えれば禁句が書かれていることがある。
また、書き方も変化していった。平安時代に書かれた物語では、その場にいるにもかかわらず、後々になって、登場人物が途中でいきなり登場することがある。
現代の文章では、このようなあまり好ましくない。もし、書こうとすれば、間違いなく指摘されるだろう。
このように、言葉や表現は時代の経過とともに変化していった。
文章は多くの言葉や多くの表現で構成されている。ゆえに、文章も連動して変化していく。
面白いことに、言葉の変化は法則性を持っている。時代が現代に近づくにつれて、だんだんと言葉を使った表現が簡単なものになっている。
漢字も「比登」から「人」に変わっていくし、ドイツ語だって、より平易な文法に変化していっている。
もしかしたら、言葉や表現がが簡単な方に向かっていくのは、人としての進化なのかもしれない。そうであるなら、それは私にとって非常に興味深いものだ。
そう考えると、日本語も今後はより簡単な表現や新しい言葉が生まれるはずだ。
未来の国語がどのような変化を受けるのだろうか。私にも分からない。今からが楽しみだ。
さて、寄り道してしまったが、次の話に行こう。内容は環境によって文章力の定義が変わるかどうかだ。
環境でいえば、仕事をする上での文章力と小説を書く上での文章力の定義の違いがあげられるだろう。出来上がる文章は全く別物になる。
定義が異なる理由は伝える相手や目的が異なるからだ。一つ一つ確認していきたい。
仕事では、仕事に関係する人たちに、伝えるべき事実を正確に伝える文章を書けるかどうか。それが文章力であると定義される。そして、それが文章を書く目的である。
決して、ストーリーを書くことではない。この事実を忘れると次のような事態に陥る。
仕事の会議で使う書類をストーリー仕立てで、書いてしまう。会議のとき、社長に指摘され、自らの所属の上司に大恥を書かせてしまった。
この例はのちに笑い話になるだろうが、目的を間違えれば、仕事に大きな支障が出ることだってある。気をつけたいところだ。
一方で、小説の執筆では、伝えるべき内容が正確にイメージされるかどうか。これが執筆での文章力であると定義される。
執筆の目的は、ストーリーを伝えることだ。ストーリーは流れを途切れさせないことを重要視する。
小説の執筆でいえば、ジャンルによって求められる文章力が異なる。
ライトノベル、ライト文芸、一般文芸、純文学。この四つのジャンルにざっくりばらんに分けてみた。それぞれ、求められる文章力について確認していきたい。
ライトノベルは読んで直感的に分かるような文章が求められる。直向きにモノやコトを表現する。
『好き』は『好き』であり、『喜び』は『喜び』、『悲しみ』は『悲しみ』だ。
ライト文芸と一般文芸は似て非なるものだ。しかし、求められる文章力はある程度一致している。その文章を読み、イメージが正確に伝わること。それがこの分野での文章力だ。また、レトリック、比較といった技術を用いて、正確に表現することもこの定義に含まれる。
『好き』は『彼女の姿を見て、心拍数が上がる』、『喜び』は『ガッツポーズをし、「よっしゃぁ!」と大声をだした』、『悲しみ』は『頬に涙が伝う』だ。
純文学は芸術だ。一つのモノやコトを芸術的に表現することが文章力だ。読みやすさは考慮される場合があるが、基本的には芸術性が問われる。
『好き』は『ピアノの音符を追えば、キミがいた』、『喜び』は『リズムよくステップを踏み、社会の喧騒から去っていく』、『悲しみ』は『涙におぼれる』だ。純文学的な書き方に慣れていないため、よろしくない例となっているかもしれない。その点については、ご容赦いただきたい。
これらに共通するのは、相手がいることだ。それぞれのジャンルにはそれぞれ異なる相手がいる。常に書き手は相手を意識せざるをえない。
小説のコンテストや賞レースの話をすれば、書き手のあなたはピンとくるだろう。
「彼は口をゆがめ、右足をゆする。何度も咳払いし、何度も頭を掻きむしった」といった文章を永遠と書き連ねた作品がライトノベルの賞レースに参加したとする。すぐに落とされてしまうのは明白であろう。
コンテストや賞レースに参加する際、目的や相手を間違えれば生き残ることは難しい。この二つを正しく認識することで、夢が叶う可能性が高くなると確信している。
どのようなシチュエーションか。また、どのような相手か。環境によって、文章力の定義が変化していくのも確かだ。
こうして、考えてみると文章力というのは、「正確に伝える」だけではない。「時代や相手、目的を考慮して、正確に伝える」というのが文章力ではないだろうか。
待て。これでは、小説を書く敷居が高くなってしまうではないか。私のせいで筆を折ったり、小説を書くことをためらったりしたら、夜道で刺されるかもしれない。無責任に結論を投げて終わり、というわけにはいかない。もっと深める必要がありそうだ。
「時代を考慮して」という小難しいことはすぐに解決できる。今までのあなたの人生経験で文章を書けば、平易かどうか問わず、少なくとも現代の文章になるからだ。
普段から、「やうやう」と書くような人はいないと信じたい。もし、いるのであれば、私にぜひ教えてほしい。
問題は「目的や相手を考慮して」だ。
小説を初めて書く、というのであれば、この部分は無視しても構わない。右も左も分からないのに、目的や相手を考えてしまうと、他の部分、具体的に言えば、構成やキャラクター、設定などがおろそかになる。そうなれば、面白さを欠いてしまう。まずは、文章で表現する前のことをしっかりとやってほしい。
面白い設定やキャラクターを考えついたあなた。早速、本題に入ることにしよう。
目的はストーリーを描くこと。私の足りない頭では、他に考えつかない。おそらく、目的はこれでいいはずだ。
相手はどうだろうか。高校生以下を対象にするか。大学生まで含むか。また、社会人向けにするか。年齢を軸に考えるのも良いだろう。
もし、しっかりと相手を見定めたいなら、もう一つ軸を用意しよう。
ライトノベルを読んだことがあるか。歴史に興味があるか。様々な軸が考えられるだろう。
二つの軸ができたら、その軸を元に選択をしよう。
例えば、「学生か社会人」、「ライトノベルを読んだことがあるかないか」、という二つの軸ならば、「社会人」かつ「ライトノベルを読んだことがある」という感じで選んでいけば、読ませる相手が決まる。
目的と相手が決まれば、どのような文章力が求められるかが明確になる。あとは、実力を養成していくだけだ。
ここまで、長々と考えを述べてきたが、まとめよう。
私たちは一般的に使われている言葉を使うことで「時代を考慮する」ということをせずにすむ。
書き手のあなたは「目的を考慮する」も小説を書く。つまり、ストーリーを書くということで考える必要もない。
「相手を考慮する」について、考える必要がある。どのような人に読んでもらいたいか。深く考えることで必要な文章力が決まってくる。
となると、小説を書く人の文章力というのは「読ませたい人に、ストーリーがイメージ通りに正しく伝わること」となる。言い換えれば、「時間が流れている文章を分かりやすく伝えること」だろう。
それでは、高い文章力を得るには果たして、どれほどの壁を越える必要があるのだろうか。結論が疑問を呼び、また、結論が疑問を呼ぶ。
大きく分けて、三つあると考えられる。
まず、基本的なことを難なくこなすこと。この段階で正しく伝わることを習得する。
次いで、レトリックなどの技術を知り、使いこなせること。ここでイメージ通りに伝わることを習得する。
そして、文章に時の滑らかな流れが描けるようになること。これで、小説というものが形になっていく。
この三つの壁について詳しく見ていきたいが、書き出し祭りで書くのに文字数が足りなさすぎる。





