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『空』


「人はそれを、忘却と呼ぶ」


 隣に座る彼女は、紅茶の入ったカップを傾けながらそう呟いた。

 十代も半ばの、けれど少し大人びた雰囲気を纏う少女。歳よりも少し細いその体は、大きな青いローブによって包み隠されている。胸元まで伸びる髪は雨雲のような鈍色で、頭の上にはひときわ大きな三角帽子を被っていた。

 魔女。人ならざるもの。人であったもの。人であることを諦めたもの。

 それは、どうやら俺と同じような存在らしかった。


「忘却?」

「ああ。忘れてしまうこと。記憶を無くしてしまうこと。自分の中から跡形もなくなり、空っぽになってしまうこと……この景色のようにね」


 草原と青空。緑と青のみが広がる景色。それだけしか、ここにはなかった。

 若草の絨毯に座るのは、俺と彼女の二人だけ。どこからか取り出したもう一つのカップを、彼女は俺へと渡してくれた。吹き抜けるそよ風が、中を満たす紅葉色の液体へ波を立てる。


「どうだい? この景色の中で嗜む紅茶もいいもんだろ?」

「……そう、なのだろうか」

「うん、これから分かればいいさ。君にはそれだけの時間があるから」


 喉を通る紅茶は、少しだけ苦かった。


「君には力がある。それも、特殊なものだ」

「……それは、良い事なのか?」

「良くもあるし悪くもある。それを決めるのは持ち主だ」


 でも、と彼女は付け足して、


「君にとっては非常に良くない事、とだけは言えるね」

「……俺は、良くない人間だったのか?」

「そうじゃない。君の力が記憶を媒体としている、というだけ」


 彼女の立てる指を見つめて、首を縦に動かした。


「君が君を構成するものを失うたび、君の持つ力は強さを増していく。概念や記録、知識に感覚、思い出さえも全て。つまり、君は忘却を重ねるごとに強くなる」

「では、今の俺は」

「ああ、記憶を全て使い果たしたんだ。どこでどうやって、とは言わないけど」


 手が震えた。得体の知れないものに対する、怯えと恐怖を感じていた。

 思わず手に持ったカップを、勢いよく煽る。

 忘却という感覚が、より一層強くなって肩にのしかかった。


「幸運だったのは私がいたことだね」

「君が?」

「おっと、『(キミ)』と出たか。私はそんなに若く見えるかい?」


 にやり、と。

 まるで蛇のように目を細めながら、彼女は薄く冷たい笑みを浮かべていた。


「君は消えかかっていたのさ」

「消えて……それは、なぜ?」

「誰からも忘れ去られたから。自分のことすらも忘れていたから。君を知る全員の記憶から、君という存在がなったから……つまり、忘却だよ。心から亡くなった」

「どうして……」


 どうして俺は、忘れ去られたのだろう。

 どうして俺は、それを受け入れたんだろう。

 そして忘却を経たその先で――俺は、何を成そうとしたのだろう。


「それは言わない約束だ。その(とき)が来るまでは」

「……なぜ」

「うん?」

「なぜ、俺を助けてくれた?」

「そんなの決まってるだろ? そこに私しかいなかったからさ」


 するとまた彼女は、口元を吊り上げて。


「別に見返りなんかは求めてないさ。ただ、私がそこにいたから。私しか君を助けられなかったから、気まぐれに助けただけ。その方がよっぽど人間らしくない……いや、魔女らしい、だろ?」


 果たして、彼女が取りだしたのは一枚の写真だった。そこに映っているのは、黒い髪を目元まで伸ばした青い眼の男。右手には黒い長剣のようなものを持って、それをこちらへ――写真を撮る人物へと向けている。


「君の写真だよ。どうだ、よく撮れてるだろ」

「これは……何を?」

「私を殺そうとしているところだね」


 一緒に取り出したカメラをいじりながら、彼女は何でもないように答えた。


「なぜだ」

「なぜだろうね。そんなこと私が聞きたいくらいさ。だってこの魔女を相手にしようというんだから、そりゃ驚いた。まあ結局は私が勝ったんだけども」


 得意げな顔になって、彼女が指先で写真を揺らす。


「でも、もう心配いらないさ。君はもう力を使わない。使えない。その理由どころか、こうして力を使った記憶すらもないのだからね。つまり……」

「……忘却」

「そうだ。力を使い果たした君は、何も持っていない……空っぽの存在になった。この青空のように」


 伸ばした指の先に広がるのは、雲一つない青空。

 透くような景色だった。そしてまた、虚ろで何も存在しない景色でもあった。


「それは別に悪い事じゃない。この先、どう生きるか自由になったのだからね」


 突き放されるような感覚だった。ガラスが割れたような、寂しさだった。

 彼女の笑顔が、とても儚いものに見えた。

 それをこれで終わらせたくないのは、俺の我儘なのだろうか。


「さて、こんなに天気もいいことだし、そろそろ私は行くとするよ」

「行くって……どこへ?」

「さあね。だって私は旅する魔女だから。行く先なんて分かるはずもない。旅路とは自分の歩んだ道のことを言うのさ。もっとも探している場所はあるけど、おそらくそれを見つけることはできないのだろうね、私は」


 少しだけ顔を曇らせながら、彼女はそう語ってくれた。


「私は一つの場所に留まれない。今だってそうだ」

「どうして?」

「だって、魔女だぜ? 人々を魔法で騙す悪の存在。邪教に塗れた、災禍の権化。誰も受け入れてくれない。私は真にそうした存在だからね」

「でも、君はそうは見えない」

「……そうかい」


 伝えると、彼女は立ち上がろうとした動きをぴたりと止める。

 焼け焦げた夕日のような、ひどく苦しそうな秋葉の瞳が、俺を見つめていた。

 哀愁の色を灯すその瞳に、どうしてか俺は手を伸ばしたくなって――、


「俺も……」

「なに」

「俺も、君と共に行くのはだめか?」


 これからの道が、この空のように自由ならば、彼女の傍に居たかった。そうでなくてはいけない気がした。そうなって欲しかった。心からの願いだった。

 彼女と共に居たいと、忘れたはずの俺が強く願っていた。


「……は、は」


 しばらくの静寂のあと、彼女は耐えきれなくなったように口元を抑えながら、


「ははは! なんだ君、随分と面白い冗談を言うな! あはははは!」

「……冗談じゃない」

「そんなことを言われても……はは、信じられるかよ! だってこんな、魔女と共に行きたいなんてさ!」

「そうじゃない。君と旅がしたい」

「あっはっは……はは……うん?」


 伝えると、彼女は一瞬だけきょとんとした顔になって問いかける。


「私と? それは……その、どういう?」

「分からない。だけど……君は、俺を助けてくれた。そして、自由に生きるという選択肢を与えてくれた。それなら、君の傍に居たいと感じた。君の力になりたいと思った。それに……」

「……それに?」


 分からない。うまく言葉に表すことが出来ない。

 喉から這い出てきた声は、泥のようになって、ぼろぼろとこぼれていく。


「俺は、自分が分からない。全てを忘れてしまった……空白の存在なのだろう」

「……そうだね。不幸だったのだと思うよ」

「だから、その空白を埋めたい。方法はまだ分からないけど……君と一緒にいれば、何か分かるかもしれない。君と同じ時間を過ごせば、俺は自分を見つけられる。根拠も何もないが……君なら俺を憶えてくれる。そう信じられた」


 傲慢なのだろう。彼女への押し付けなのかもしれない。

 でも、何もない俺には、これだけしか信じることが出来なかった。

 彼女はまるで青空の中にぽつりと輝く、太陽のように見えた。


「憶えてくれる、か。まったく、こんな胡散臭い奴をよく信頼できるよ」

「君しかいない。君なら、信じることが出来る」

「そんなことを軽く言うなよ。私は魔女だ。忌み嫌われる存在だ。それと旅をするというのは、どういうことか分かるのかい? 私と同じ苦しみを味わうことになるんだぞ?」

「……それでも、君の隣にいられるのなら」


 後悔はしないだろう。痛みも苦しみも、全てを受け入れられる気がした。


「これは……また、とんでもない拾い物をしたものだ」

「拾い物?」

「不満かい? それなら……そうだな、()()と訂正しておこうか」


 おかしそうに笑いながら、彼女はにかり、と太陽のように笑って、


「私は空白の魔女、エスカトラフィシエル」

「えすか……と、ら?」

「エスカで結構。もっとも、そう呼ばれるのも初めてだから慣れるまで時間がかかるだろうけど。そこは許してくれよ。けれど、そうだな……名前を呼んでくれるというのは、どうも新鮮な気分だ。今までずっと一人だったからね」


 軽く笑いながら言うと、彼女はすぐにこちらへと手を伸ばす。


「さて、そうと決まればすぐに行くとしよう」

「行くって……もう?」

「そりゃそうさ。旅をするには、何事も早い方がいいからね」


 戸惑いながらも手を伸ばすと、彼女は俺の腕を強く引き寄せて、


「ほら、いつまでも座ってないで、足を動かすんだ。やはり旅というのは歩いてこそだからね。箒で飛ぶなんていうのは邪道も邪道さ」

「ちょっ……ちょっと待ってくれ! このカップはどうすれば……」

「そんなことを気にしていたら、私の旅には着いてこれないぞ! この先にはまだ、君が見たことのない景色が広がってるんだから! そんな小さなカップを覗くよりも、この大きな空を見上げてみろよ!」


 透き通るようなその景色へ、人差し指を突き立てながら。


「君の空白は、きっとこの青空が埋めてくれる!」


 空白の魔女は高らかに、そう告げたのだった。


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