ヒナギクの妖精は今日も元気に花を蹴る
一面に広がる花畑。白と黄色の花びらを持つヒナギクの花びらを、せっせと拭いている妖精がいる。
それを見ながら、気持ちのいい日差しの中あくびをしつつ真珠玉を掲げる。真珠から溢れ出た光は花畑に降り注ぎ、あっという間に広範囲の水やりが終わる。青空にかかった大きな虹の橋に気付いた妖精が、怒った様にこちらを向いた。
「あ、デイジー! 駄目じゃない、また魔法の真珠玉を持ち出したのね」
デイジーは短い黄色の髪をなびかせながら、取り返そうと伸ばされた手をひょいと避ける。
「パリスは真面目すぎるんだよ。これを使えばあっという間に今日の仕事が終わるのに」
「駄目よ。1輪1輪丁寧に世話をするのが大事なんだって、お婆様も言っていたでしょう?」
追いかけて来るパリスから逃れながら、デイジーは再び真珠玉を掲げる。わざわざ小川からどんぐりの殻を使って何度も水くみをするより、こちらの方が効率が良いのだからパリスもそうすればいいのに。
デイジーはパリスよりも飛ぶのが早いから、逃げるのは簡単だった。
いつもの様に息を切らしているのを見て、デイジーはようやく止まる。その手から真珠玉が奪い取られ、パリスが怒った様に口を開く。
「もう! 水のやりすぎは良くないのよ? 1輪1輪、ちゃんと状態を見ながらお水をあげなくちゃ」
「はいはい。分かりましたよ」
デイジーが止まったのにはわけがある。元気が取り柄のデイジーとは違い、パリスは少しだが、体が弱い。双子の妖精であるにもかかわらず、2人の性格はまるで正反対だ。
白銀の長い髪を朝露で洗い、ヒナギクから分けてもらった花粉で羽を丁寧に手入れするパリスと違い、デイジーは小川に頭を突っ込んで振り乱した後、花に蹴りを入れ花粉を羽にかける。見かねたパリスがデイジーの羽の手入れをすることもある。
そんな、いつもの日常。
1羽の小鳥が、ヒナギクの花畑の上を旋回している。
先に気付いたのは、いつもの様に昼寝をしていたデイジーだった。
「なぁ、パリス」
「デイジー。真面目にしてってあれほど――」
「あの鳥、ずっと花畑の上を回ってる」
「え?」
パリスが見上げると同時に、その鳥は高度を下げ始めた。デイジーはパリスをかばうように、その背に隠す。一度虫と間違われて突かれた事のあるパリスは、鳥が苦手だ。
茶色い翼をはためかせ、ヒナギクの花畑に降り立ったのはヒバリのようだった。その背から誰かが降り立ち、ヒバリの喉元を優しく撫でる。
「とてもすばらしい花畑だ。まるで宝石の様だな。お前もそう思うだろう?」
ヒバリは小首を傾げると、小さな虫をその嘴に捕らえる。その様子に、小さな笑い声が上がった。
「はは、そっちが目的だったか。いいよ、少し休憩にしよう」
飛び立ったヒバリを見やった後、茶色の髪を一結びにした男性はヒナギクの花の上へと飛び立つ。その手が白い花びらに伸ばされた。
「白蝶貝の様な美しさだな。これほど美しく磨かれればお前達も嬉しいだろう?」
返事をするかのように、ヒナギクは白い花を縦に揺らす。その言葉にとても嬉しそうな表情を見せたパリスが口を開いた。
「ありがとう」
男性は驚いたように振り返ると、2人を見つけて丁寧に頭を下げた。
「なるほど、この花が綺麗なのは、君たちのおかげだったんだね。初めまして。僕はヒバリの妖精、アルエット=アルヴェンシスだ」
「ヒナギクの妖精、パリス=マーガレットです」
白いワンピースの裾をつまみ、パリスは丁寧に挨拶を返す。
「ほら、デイジーも」
「……デイジーよ。デイジー=マーガレット」
腰に手を当てたまま、素っ気なく挨拶をする。
アルエットの人懐っこそうな黒い瞳がデイジーに向けられる。けれど視線が合うよりも先に、デイジーは小川の方へと飛び出していた。
「あっ、デイジー!」
引き留めるようなパリスの声を無視して、離れた小川の水に足を浸す。水をすくって顔を洗うと、火照りが少し治まった気がした。
……何これ。これじゃまるで――
その日から、アルエットは頻繁に顔を見せるようになった。
「もう、駄目って言ってるのに! デイジー!」
「僕に任せて、パリス」
いつもの追いかけっこをしていると、聞きなれた声がした。
デイジーは、自分の羽に自信があった。今まで、飛ぶ速さに付いて来れた妖精に会ったことはなかった。振り切れる。そう思っていた次の瞬間に、アルエットに真珠玉を奪われた。
「早いね、デイジー。こんなに早く飛べる妖精に会ったのは初めてだよ。おっと」
取り返そうとしたデイジーの手が空を切る。むきになって追いかけるが、アルエットの背には追い付けない。時折みせるいたずらっぽい表情に、デイジーは胸が締め付けられるような感じがした。
取り返そうとするのも空しく、真珠玉がパリスの手に返される。
「ありがとう、アルエット。デイジーより早い妖精なんて初めて見たわ」
「僕にも、追いかけっこが大好きな友達がいるんだ。一度も勝ったことは無いんだけどね」
軽く息を整えながら、自分の乗ってきたヒバリの方を見るアルエット。翼を翻し虫を捕らえるその姿は、勇ましい事この上ない。それを見たパリスは、笑いながら口を開いた。
「ふふ、勝つのは難しそうね」
「うん。多分、無理だと思う。僕は本気でも、向こうは遊びだからね」
「丁度、キイチゴのジュースを作った所なの。飲んでいく?」
「ありがとう。頂くよ」
お礼とともにかけられた笑顔に、パリスがわずかに頬を染める。
ここ数日の様子で、デイジーは気付いてしまった。
葉の陰で、楽しそうに笑いあう2人。
手を繋ぎ、恥ずかしそうに肩を寄せる、シルエット。
パリスが幸せになるのなら、喜ばなければいけない事なのに。
「デイジーも飲むでしょ?」
「あ、うん」
ハッとして、あいまいな返事を返すデイジー。パリスの作るキイチゴのジュースは本当に美味しい。小さめのどんぐりの殻のコップが差し出される。受け取ろうとした時、それはパリスの手から滑り落ちた。
「パリス!?」
あわてたように、アルエットがその体を支える。ぐったりとしているパリスの羽に、一筋の白い線のようなものが見えて、デイジーの背筋は凍り付いた。
気を失ったパリスを、アルエットが静かに草のベッドに寝かせる。デイジーがぽつりとつぶやいた言葉に、アルエットは驚いたように口を開いた。
「菌糸病、って、パリスが?」
「うん。多分、そうだと思う。お婆様もそうだったから」
菌糸病。体力のある者ならば問題は無い病気だったが、体の弱いパリスにとっては、命をも失いかねないものだった。徐々に羽が真っ白になっていき、最後には死に至る。アルエットに説明をしながら、デイジーは言葉を続ける。
「私、秋の精霊様にお願いしてくる。ハシバミの実を一つ貰ってくるから、パリスの事をお願い」
「ハシバミの実、って。秋一番に落ちる、魔法の薬の実の事?」
「そう」
デイジーは草の繊維を編んで作ったバッグに、花粉を入れた袋を詰める。食料の花の蜜と、花粉団子。ガラスのナイフを腰紐へと差し込んだ所で、アルエットが口を開く。
「秋の精霊様が春に目を覚ますなんて、聞いたことが無いよ。ハシバミの実ほどではないけど、僕の知り合いに薬に詳しい妖精がいるから――」
「お婆様も、そう言ったわ。……そして、秋まで持たなかった」
魔法の真珠玉に、手を伸ばす。丁寧に布でくるむと、それもバッグの中へと入れた。
「それを、代償に?」
「うん。お婆様の形見だけど、パリスのために使うならきっと許してくれるわ」
何の代償も無しに、精霊が願いを聞くことは無い。
その時、いつの間に気付いていたのか、パリスの寝ている草のベッドから小さな声がした。
「やめて、デイジー」
「パリス。寝てなくちゃ駄目じゃない」
「お婆様、言っていたじゃない。その真珠玉では、代償としてはきっと不足だって」
お婆様と同じことを言うパリス。けれど、デイジーの心はもう決まっていた。
「待ってて、パリス。きっとハシバミの実を持って帰ってくるから」
引き留める声を無視して、空へと飛び出した。駄目だったなら、それはその時に考えればいい。そう思っていたデイジーの手を引く者がいた。
「待って、デイジー」
「アルエット。止めないで」
「止めないよ。僕も行く」
こんな時だというのに、デイジーの胸はわずかに高鳴る。一緒に行けたら、どんなにいいだろう。けれど、パリスを1人残しておくことなんて出来なかった。何より、真珠玉はお婆様の形見。デイジーでなければ代償の意味をなさないのだ。
「ありがとう。でも、1人で大丈夫だから。私の速さはアルエットが一番よく知っているでしょう?」
「でも――」
「私より、パリスの事をお願い。すぐ無理をするに決まっているんだから。お花の世話は、隣のヴィオラに頼むといいわ」
付いてきて、と出そうになる言葉を飲み込んで、デイジーは笑顔で言った。
「朝露を毎日掬うのをお願いね。パリスの綺麗な髪は、それで保たれてるんだから。帰って来た時にボサボサになってたら怒るわよ」
じゃあね、といって今度こそ飛び立つ。
急がないと。秋の精霊の眠る森は、ここから全速力でも5日はかかる。
……上手く、笑えてたかな。追いかけてきてはくれないかと、期待してしまう自分が嫌いだ。パリスが大好きなアルエットのために、そして、大好きなパリスのためにも。
飛びながら羽に花粉をかけ、花の蜜を口にする。花粉団子を口の中に押し込み、デイジーは飛び続けた。夜になると視界が悪く、あちこちに葉や枝が当たり小さな痛みが走る。それでもデイジーは眠りながらも飛び続け、5日かかるはずの秋の精霊の下へ、3日3晩で辿り着いた。
「秋の精霊様。秋の精霊、アッバーヘス様。どうかお目覚め下さい。私と双子のパリスが、菌糸病にかかってしまったんです。体が弱いから、きっと秋まで持たない。ハシバミの実を1つ、どうかお願いします」
真珠玉を掲げ、ハシバミの木に祈りを捧げる。けれど、立派なハシバミの木は黄色の細長い花を風になびかせるばかりだった。
……やっぱり、足りないんだ。
震える手で、デイジーは腰紐に挟んだガラスのナイフを手に取る。
アルエットが付いてきていたら、きっと止められていただろう。
妖精にとって、尊いもの。代償に足るものがデイジーの背にあった。
4枚もあるんだから、2枚無くなってもきっと飛べるだろう。
思いきり引いたナイフとともに、体が鉛のように重くなる。
切り落とした2枚の羽と真珠玉を握りしめ、懸命にデイジーは秋の精霊に祈りを捧げた。
どのくらいそうしていたんだろう。
辺りにはすっかり夜が訪れていた。
相変わらず、ハシバミの木は穂の様な花を風に揺らしている。
泣き出しそうになったデイジーは、ある事に気が付いた。
さっきまで持っていたはずの、真珠玉と羽が無い。
まるで何かに導かれるかのように、デイジーはハシバミの木を見上げる。
垂れ下がる黄色の花に混じって、小さな赤い花が光っている。妖精でなければ見逃してしまいそうなその周囲に、青々とした葉が茂っていく。ギザギザとした葉の中に、まだ青いハシバミの実が1粒、実った。
青かった実はあっという間に茶褐色へと変化し、わずかな風に、その身を揺らした。
落ちて来るハシバミの実に、デイジーは弾かれた様に羽を動かす。地面に落としてしまっては、せっかくの実も意味がない。魔法の薬と呼ばれるのは、地に落ちる前に受け止めないとその効果が消えてしまう所から来ていた。
上手く飛べない。重くなった体で、デイジーは懸命に手を伸ばす。実を覆う固いガクの様なものが腕に食い込む。重さに耐えきれず、体ごと地面へと落ちるが、デイジーは実を離さなかった。
苦しさから思わずきつく目を閉じる。恐る恐る、目を開いてみると、ハシバミの実は淡く光ったまま、魔法の力を残していた。
「やった……」
安心したのか、痛かったのか、デイジーには分からなかった。ひとしきりハシバミの実に涙を落とすと、何度もハシバミの木にお礼を言って、デイジーは羽を大きく羽ばたかせる。
ハシバミの実は重く、2枚の羽を無くしたデイジーには辛いものだった。
それでも、必死に来た道を戻る。
途中で花粉が尽き、羽がしわくちゃになってしまって飛べなくなった。
それでも、行きよりも倍以上の日数をかけ、デイジーはヒナギクの花畑に帰り着いた。
花畑の上を、ヒバリが旋回している。
こちらに気付いたかのように、ゆっくりとヒバリはデイジーの前に舞い降りた。
「……ただいま」
ヒバリは、心配そうにデイジーに嘴を寄せる。ハシバミの実がその嘴に挟まれ、乗れというようにヒバリはデイジーに背を向けた。
「デイジー!? 羽は、羽はどうしたの!?」
「ん?4枚あるなら、2枚くらい無くてもいいかなぁって思って」
起き上がろうとしたパリスが、激しい咳をする。その羽はもう3分の1ほど白く変色していた。何事もなかったかのように、笑顔でパリスをベッドに戻す。
ヒバリに実を割ってもらい、中心の種子を取り出す。光が消えないうちに、手早く粉にして、花の蜜と混ぜ合わせる。数種類のハーブを混ぜ込み、素早く団子状にまとめて、完成。お婆様の時に作り方は調べたから、頭には入っていた。
「パリス。朝露を取ってきた、よ」
そう言ったアルエットの声が、驚きに詰まる。
良かった。ちゃんと約束を果たしてくれていたみたいだ。その証拠に、パリスの髪は美しい白銀を保っている。対するデイジーの方は、言うまでもない。
体力の落ちたパリスは、最初薬の団子すらほんの少ししか食べられなかった。パリスの羽から白い影がすべて消え去ったのは、デイジーが帰って来てからしばらくの事だった。
パリスとアルエットは、恋人同士になりました。
知ってたけどね。パリスに言われる前から。
仲良くしている2人を見ると、正直まだちょっと辛い。
でも、幸せそうなその姿は、何よりも嬉しいものだった。
無くした羽の事を、パリスはいつまでも気にしている。元気になったんだから、気にしなくていいのに。
なぜなら。
「デイジー! 駄目って言ってるのに!」
今日も花を蹴り飛ばし花粉を羽に着けるデイジーに、パリスが注意をする。
追いかけてこようとするパリスを見て、デイジーは素早く指笛を吹いた。
高い鳴き声とともに、舞い降りたヒバリの背に素早く乗る。
無くした2枚の羽の代わりに、新しい翼を手に入れました。
風を切るように空を駆ける。アルエットが呼ぶように指笛を吹いているが、ヒバリはもうすっかりデイジーに懐いていた。決して、デイジーがこっそりハシバミの実を分けてあげたからではない。
相変わらずなデイジーに恋人ができるのは、まだもう少し先のお話。
ありがとうございました。