永遠の少女像をめぐって。ミニヨンとゾフィー 試論
ゾフィー・フォン・キューン 13歳の少女がなぜ、これほどまでにノヴァーリスの心を捉えたのであろうか?
のこされた肖像画で見るこの少女の横顔は、決して、妖精の姿でもなく、どこにでもいそうなドイツのゲルマン人的顔立ちの少女に過ぎない。
ミニヨンはゲーテ創作の架空の少女であるが、ゾフィーは実在の少女だ。
それだけに、ロマン的移入がなされにくいという現実もあるだろう。
ありていに言えば、ノヴァーリスの、個人的な好みということになってしまいかねない。
あばたもえくぼである。
だから、現実のゾフィーと死んで、妖精になったゾフィーは別人とかんがえたほうがよい。
もし、ゾフィーが死なずに元気で、ノヴァーリスの妻となって居たら、ノヴァーリスはこんなに、夢中になっただろうか?
ゾフィーは年取るし、やがては、ベッティーナのように中年の口うるさいおばさんになってしまっていただろう。夭折、これが重要だ。老人になったノヴァーリスが想像したくないように、夭折は必然だったのだ。
しかし、
少女はやがて、成長して、大人の女性として、夢と憧れをアウフヘーベンして、現実へと回帰していき、
「大きな鍵束を持った、小柄で丸々とした主婦」(ホフマン作、四大精霊)に転進していかねばならないのだ。
気丈でやりくり上手な家庭を守る主婦になることを、ロマン派的にはロマンの失墜と見るしかないだろうが、しかし、それは宇宙万物のナツラルな循環でもあるのだ。
永遠に老いない少女、それは怪物か、さもなくば、オートマタ(少女人形)でしかありえないだろう。
男性の心の中に潜むアニマの投影たる永遠の少女像、それがゾフィーであり、ミニヨンであり、つまり理想型としての少女の象である。
大人の女性になる直前の 、不安定な,中性的な妖精のような、ある、1時期の少女時代は、女性の一生の中で特異な位置を占めている。
それはたとえば、つげ義春描くところの、「紅い花」の少女のように、メランコリックで夢見がちで、あったりもする。
たとえばミニヨンあるいはゾフィーという形貌によって永遠化された、ドイツロマン派の少女たちはどうだろうか?
ウイルヘルムマイステルに登場する謎の美少女ミニヨン、思春期の不安定さに満ちたこの少女は
その生い立ちも定かでなく、旅芸人一座で虐げられている。
ウイルヘルムによって助けられたミニヨンは、淡い恋心をはぐくんでいくことになる。
朧な記憶のかなたに立ち上る生まれ故郷のイタリアへの思いを歌った、ミニヨンの歌「君よ知るや南の国、レモンの花咲き~」それは憧れと恋心と
予感と、郷愁に満ち溢れたものだ。
またミニヨンはこんな歌も歌っている。
「憧れ知る人だけが私の悩みを知っているのです。
ただ一人であらゆる喜びから遠ざかり、
私は遠い空を見晴るかすのです。
ああ、私を愛してくれる人ははるかかなたです。
眼は回り、胸は燃え盛ります。
憧れ知る人だけが、私の悩みを知っているのです。」
いかにもロマン派的な情調に満ち溢れた詩ではある。
詩人にその霊感を与えてくれる少女という図式は古今東西ありふれた構図?であろうか?
それを人はミューズと呼ぶ。
詩人に限らず小説家とか画家にもそれはある。
まあ一種のアニマとでもいいえるものだろう。
古くはダンテのベアトリーチェとか、
まさにダンテにとってのミューズであった。
しかし少女を普遍化して、描いたのは
ドイツロマン派である。
ゲーテのミニヨン、(ゲーテは その初期はロマン派だった)
ノバーリスのゾフィー、
ホフマンのアウレーリエ
ヘルダーリンのディオティーマなどなど、
すべて少女像を永遠化した作品である。
ただし
現代の小説家の描く
「ロリータ」とか
そういう系の小説とは一線を画す。
少女はドイツロマン派では聖別化されて
聖なる昇華を遂げて詩人のミューズとして
救済の女神になっているからだ。
ナボコフの「ロリータ」では少女はあくまでも肉化された存在で
聖別される由もない存在として描かれているばかりだ。
実際問題、
少女なんてものは、そんなドイツロマン派の詩人たちの描くような
聖別化されうるものではなくて
肉化されてだけの存在なのだが
あえて詩人はそれを聖別して昇華させて
ミューズに祭り上げたわけなのだろう。
そういう意味ではミニヨンもゾフィーもアウレーリエも
妄想の産物?でしかない。
まあしかしこれも芸術のたまものであり
たとえば藤田嗣治描くところの「猫を抱く少女」みたいな少女が現実にいるはずもないからと言って
それでフジタ芸術が貶められるわけもないとの同一であろうか。
そんなこと言えば
アリスだって (不思議の国のアリス)
ドロシーだって (オズの魔法使い)
現実にはありえない少女たちですからね?
まあ作家の妄想の産物
というか
その作家のアニマそのものでしょうね。
私の潜在意識の中にもそういう
妄想の聖別された「永遠の聖少女像」ってありますものね。
それは完全に清められた
聖別された
犯すことができない
聖少女像ですよ。
現実の生身の肉なるものとして少女ではないです・
いわゆるロリータ趣味とは隔絶した
まあいってみれば
聖母マリア信仰みたいなものでしょうか?