月夜の怪物
空には大きな満月がポツリと浮かんでいる。月光が木の葉を銀色に照らし、その影は生き物の如くゆらりと揺れた。迷い込んだ旅人を奥へと誘うかのように、柔らかな風が頬を撫でる。どこからともなく聞こえる梟の声が心地良い。
幻想的な夜の森。僕はそこに立っていた。
一体、いつからそこにいたのかは分からない。あまりにも非現実的で、まるで夢の中のよう……いいや、これは夢なのだろうか。
「ねえ、お兄さん」
背後から人の声がした。僕は振り返り、その声の主をまじまじと見つめた。主は僕のすぐ後ろにいた。声の主は鳶色の髪をもつ、おおよそ七歳くらいの幼い少年。だが、彼の小さな顔は狐の面で覆われている。
「君は……」
どこからきたの、そう言い切る前に少年は僕の右手を軽く握った。
「ついてきて」
少年はそれだけ言うと、半ば強引に手を引いたまま歩き出した。
*
かさり、かさり、と落ち葉を踏みしめて、僕らは月光が照らす道を歩く。僕は少年に手を引かれたまま、キョロキョロと辺りを見渡した。
静かに風に揺られる花。もの珍しそうに様子を伺うリスの親子。直立して微動だにしない野兎。寄り添うように並んだ鹿の群れ。首をかしげた梟。森の動物たちは、決して僕らを阻むことなく、ただじっと見守っている。――まるで、王様になったみたいだ。
「君は、どこへ向かっているの」
僕がそう訊ねると、少年は唄うように言葉を紡いだ。
「この森のヌシサマのところだよ」
ヌシサマ、と僕は口の中でその言葉を反芻した。ヌシサマ、それはつまりこの森の主のことだろうか。
「ヌシサマはとっても偉いんだ」
彼は楽しそうに、けれどどこか悲哀に満ちた声で呟いた。
「そう……。この森の主だから偉いんだね」
「うん。でもキミもヌシサマと同じくらい、偉いんだよ」
僕が? 何故、僕が偉いんだ?
「それにね、ボクも偉いんだよ」
彼も偉い? 一体どういうことなのだろうか。
「ボクもキミも、この森の王様なんだ」
ああ、だから動物たちが近づこうともせずに見守っていたのか、と妙に納得した。けれど「王様」を自称している彼ならともかく、僕がこの森の王様? それはあり得ないはずだ。だって、僕は初めてこの森に来たのだから。いきなり王様になるわけがない。
「僕は、王様じゃないと思うんだけど」
「いいや、キミは王様だよ」
僕の否定に、少年は不満気に頬を膨らませた。(いや、実際には狐の面を被っているから、そう見えただけなのかもしれないが。)
「ともかく、キミには絶対にヌシサマに会って貰わなきゃダメなんだ」
「なんで」
「ヌシサマはずっと悲しがっているから。ヌシサマを癒せるのはキミしかいないんだ」
*
――これは、一体何なんだろう。
ヌシサマ、と呼ばれたその怪物は、森の奥深くの開けた所にうずくまっていた。
鷲の頭に、首回りにはライオンの鬣。白銀の毛に覆われた狼の身体に、全てを見透かすかのような群青色の目。その背には鴉のような黒い翼が、月光を受けて妖しく輝いている。その姿はファンタジー映画に出てきそうなキメラのようであった。
彫刻のような美しい姿にもかかわらず、僕はその怪物に少しばかりの違和感を覚えた。
「ああ、よく来たね」
ずん、と地面を揺らすような低い声。ヌシサマが発したその一声で、僕は思わず足がすくんでしまった。それ程までに、ヌシサマは支配者としての風格をその身に纏っており、他者を圧倒するような迫力を持っていたのだ。
「ヌシサマ!」
ずっと手を引いていた少年は僕から離れ、軽快な足取りでヌシサマに飛びついた。慈しんだ目で少年を見つめるヌシサマの姿は、まるで母親のようである。
「おお、いきなり飛びつくのではないぞ。私はこれでも脆いのだから」
少年はごめんなさいと謝りつつも、子供らしいあどけない笑い声をあげて、ぴたりとヌシサマにくっついた。
「さて……そこにいるお前は、初めてこの森に来たようだね」
群青色の目が、少年から僕に移った。
「どうして分かったんですか」
「物珍しそうにキョロキョロしていて、落ち着いていないからだ。……だが、本当は『初めて』来たわけじゃない」
初めて、じゃない? 一体どういうことだ?
「……いいえ、この森に来たのは初めてです」
「いいや、お前はこの森を一番よく知っている」
ヌシサマはすうっと目を細めた。視線が、群青色の瞳が、僕を貫く。
「……僕は、初めてここに来ました」
僕がそう言うと、ヌシサマは呆れたように溜息をついた。
「お前の記憶の奥底に、この森はある。お前はここを知っている」
僕が、ここを知っている? 前に来たことがあっただろうか。だが、記憶の糸を手繰り寄せても、その答えは出てこない。
「お前はここを知っている。知らなければこの森も、私も、存在しないことになる。だが、確かに私達はここにいる。風を、花の香りを、森の息吹を感じとることができる。それはお前が、この場所を心の奥では覚えているからだ」
キン、と頭の中を何かが掠める。けれど僕は、それを振り払うようにして首を横に振った。
「……何も、覚えていません」
声が、震えた。固く閉じていたはずの蓋がカタカタとなるように、思い出してはならない何かが、抑え込んでいた何かが溢れ出しそうになった。
「波に呑まれて、記憶が埋もれているからだ」
「だから僕は何も……」
「知ってるよ」
ハッとして、ヌシサマの陰に隠れていた少年を見た。少年は狐の面の奥から、じいっと僕を見据えている。
「キミは、この森を知っている」
変声期前の幼く、けれども凛とした高い声が静かに響いた。
「本当にキミは覚えていないの?」
身体が、動かなかった。
思い出したい。思い出したくない。思い出してはならない。蓋がガタガタと激しく音をたてる。抑えなければ、はやく、蓋を抑えなければ。
「……何も、知りません」
はあ、と少年が深い溜息をついた。ヌシサマの群青色の目が冷たく沈んだ。
「残念だよ、『ショウタ』」
少年とヌシサマの声がぴったりと重なる。
びくりと身体が震えた。
――どうして、彼らは僕の名前を知っている? 名乗った覚えなんてないのに!
「ショウタ、私は悲しい」
突然ぽつり、ぽつりと、水に溶かした絵の具のような青い雨が降ってきた。
「悲しい、私は、悲しい」
青い雨は徐々に強さを増していく。
ヌシサマの隣にいる少年は、批難めいた声で僕に問いを投げかける。
「ねえショウタ、ヌシサマを見たとき、何かヘンだと思わなかった?」
……そうだ、僕は初めからこの怪物に妙な違和感を抱いていた。何故、今まで目を逸らしていたのだろう。
動かない足を無理矢理前へと進め、ヌシサマに近づき、じっと目を凝らして見つめた。
――ああ、そうか。違和感の正体はこれだったのか。
欠けた右の後ろ足。くり抜かれたかのように仄暗い闇が続く左目。左右非対称の歪な黒い翼。
美しい、と錯覚した彫刻は、未完成のままであった。
「ショウタ、ヌシサマはね、とても悲しんでいるんだ」
息ができないほど、青い雨が強くなる。
「キミが思い出せないと、ヌシサマはいつまでたっても『未完成』のままなんだ」
――青の中で、溺れる。
「ヌシサマを救えるのは、キミしかいないんだよ」
もがいても、もがいても、誰も助けてくれる人なんていない。
頭の中が、真っ白に塗りつぶされた。
*
ペタリ、ペタリとキャンバスに筆を打ち付ける音が聞こえる。
真っ白なキャンバスは、筆が触れるたびに夜空色に染まっていく。
ペタリ、ペタリ。
やがてキャンバスの中に、一つの世界が広がった。
仄暗い、けれどもどこか幻想的な森。
その世界を創ったのは僕――いいや、「幼い頃」の僕だ。
ペタリ、ペタリ。
七つの誕生日に両親から与えられた贈り物。それが、四〇色の絵の具のセットと真っ白なキャンバスだった。
ペタリ、ペタリ。
プレゼントされてからしばらくは、図鑑で見た動物たちをそのまま描いていたが、贈り物を与えられてから数年が経つと、やがて僕は初めて「オリジナル」の生き物をキャンバスの中に描いた。
鷲の頭に、首回りにはライオンの鬣。白銀の毛に覆われた狼の身体に、全てを見透かすかのような群青色の瞳。その背には鴉のような黒い翼が生えている。
――そうだ……森も、ヌシサマも、創りだしたのはこの僕だった。
ただ、絵を描くことが好きで好きで仕方がなかった。
けれど年を重ねていくにつれ、僕は筆を手放してしまった。勉強、受験、友達づきあい……めまぐるしく過ぎていく日々は、やがてキャンバスから僕を遠ざけた。
そして長いこと描いていたヌシサマは、未完成のまま物置の奥深くに埋もれてしまった。
絵を描きたいという衝動を、まるで蓋を閉めて封印するかのように、無理矢理抑え込んでいたのだ。
「やっと、思い出したんだね」
少年の声にハッとして、僕は記憶の海から引き揚げられた。
「キミはずっと我慢していたんだ」
パキンと音をたてて、重く絡んだ鎖が外れる音がする。
「もう抑え込まなくてもいいんだ。キミは描きたいようにかけばいいんだから」
少年の言葉が、絡みついた鎖を解いていく。
「ヌシサマが悲しんでいる意味、分かったでしょ?」
煩悶という名の鎖から解放され、身体が軽くなった――そんな気がする。
「ヌシサマを救えるのは、キミしかいないんだ」
少年は顔を覆っている狐の面に手をかけ、そっと外した。
「ヌシサマを助けて、ショウタ――いいや、『ボク』」
――狐の面の下から現れたのは、幼い頃の「ボク」の顔であった。
*
空は紫色と橙色のグラデーションに染まっている。煌々として宙に散らばっていた星々は、今にも眠りについてしまうかのように、光を弱めていった。
左手には絵の具セット、右手には幼い頃の「ボク」の手。
かさり、かさりと落ち葉を踏みしめて、僕たちは暁光へと向かう。
カチコチ、カチコチと何処からともなく秒針を刻む音が聞こえた。
森の動物たちが、もの珍しそうに僕らを見つめる。不意に、野兎がぴょんと木陰から飛び出し、歩き続ける僕らの後ろにぴったりとくっつくようにしてついてきた。その野兎を筆頭に、鹿やリスの親子、梟など数えきれないほどの動物たちがぞろぞろと、僕らの後に続いた。
暁光の行進が向かう先は、この森の主が眠る揺り籠。
足を前へと進めるたびに、秒針の音はどんどん大きくなっていく。
――まだ、覚めないで。もう少しだから。
不安気な目で、幼い「ボク」が僕を見上げる。
「大丈夫だよ」
それだけ言うと、幼い「ボク」はほっとした顔で、小さく息をついた。
歩き続けた僕らは、やがて森の主の元に辿りついた。森の主はむくりと起き上がり、何もかも見透かすような群青色の目で、じっと僕らを見つめた。
「ヌシサマ、今、助けてあげるね」
群青色は、優しい曲線を描いた。
*
「翔汰先生、翔汰先生」
肩を揺さぶられて、僕は微睡みの森から引き戻された。
いつの間に眠ってしまっていたのだろう。
目の前には、見慣れたアシスタントの顔。彼は怪訝そうに、僕の顔を覗きこんでいた。
「美術館のスタッフが、個展の準備をして下さっているというのに……主役がうたた寝しないで下さいよ」
……ああそうだ、主役が寝てどうする。スタッフにあれこれ指示を出さなければならないっていうのに。
「ごめんごめん、気を付けるよ」
まったくもう、とアシスタントは呆れたように溜息をついた。
「それにしても、一体どんな夢を見ていたんです? うなされたかと思えば、急に穏やかな寝顔になるし……」
夢の内容を話そうとしたが、僕は口を閉じた。あの奇妙で幻想的な夢を、言葉にして説明するのは難しい。
「……何度も見た、懐かしい夢だよ」
ふうん、と納得がいかない様子で、彼は頷いた。
スタッフが並べた作品を一つ一つチェックしながら、展示室の中をぐるぐると歩く。並べた作品の順番は正しいか。額縁は注文通りか。
不意に、ある一つの絵の前で、ぴたりと足を止めた。
鷲の頭に、首回りにはライオンの鬣。白銀の毛に覆われた狼の身体に、全てを見透かすかのような群青色の目。その背には鴉のような黒い翼が、月光を受けて妖しく輝いている。
そして、その怪物に寄り添うようにして眠る幼い少年。
自他共に最高傑作だと認められている、僕の作品だ。
「いつ見ても良い絵ですよね」
愛おしそうに、アシスタントはその絵を見つめる。
なんだか照れくさくなって、自然と上がる口角を片手で隠してしまった。
「そうそう、ずっと気になっていたんですけど、あの絵に描かれている少年にはモデルがいる、という噂を聞きましたが……本当ですか?」
首を傾げて訊ねる彼に、思わずくすりと笑いが零れてしまう。
「うん。僕に進むべき道を照らしてくれた子だよ」