ダルトスとイリア
「はぁ,はぁはぁ………」
リンデは地面にぐったりと大の字になっていた。
「まあ,こんなところか…」
アデルは木刀で肩を叩きながら平然と地面にべったりしているリンデを見下ろして笑う。
「くそー,まだ…まだ…くっ…」
リンデは立ち上がろうとしたが,足に力が入らないのよろけて,再び倒れようとした。
「よっと」
倒れる瞬間にアデルがリンデを支える。
「無理するな。甘えるなと言ったけど,努力した末で出来ないことに関しては別腹だ。お前はよく頑張ったよ,さあ,おぶってやるよ」
「アデル…」
「言っただろ,お前が一人前になるまで側にいるって。けど,いつか自分の足で立てるように頑張れよ」
「やっぱり優しいね,アデルは…」
「甘いのと優しいのとは別腹なだけだ…」
アデルはリンデを背負い,家路をゆっくりと歩いていく。
「あら,またこんなに泥だらけになっちゃって…」
迎えてくれたのは〈イリア・エスカレーネ〉,絶大なエーテル力を誇る異種であり,三聖者の一人,ダル
トスの妻でもある。
腰まである銀髪に健康的な小麦色の肌が特徴で出るところは出ている成熟した大人の女性である。
ちなみにアデルの初恋の女性でもあった。
「泥んこになってるのはリンデだけど,懲りずにアデル君に向かっていったんだねえ…」
「むー,アデルがなかなか一本取らしてくれないんだよ!」
「まあ!アデル君から一本なんて,リンデ,あなた身の程知らずもいいとこよ。蟻が象に立ち向かっていくようなものよ」
リンデの文句もイリアはのほほんとした口調で容赦も欠片もなくバッサリと叩き切る。
リンデは止めを刺されたかのように魂が抜けたかのように呆然とした。
穏やかな雰囲気で誤解されやすいが,イリアの中で敵対するものには容赦という文字は存在していなかった。
花を手折るように微笑みながら敵を屠っていく姿は裁きの女神と恐れられるほどである。
ダルトスが三聖者最強ならイリアは三聖者最恐であった。
「相変わらずイリアさんはバッサリと切りますね…」
アデルは苦笑しつつ,石像になったアデルをよっこらせと下ろして塗れタオルで顔を拭いていく。
「アデル君,あなたは私たちの家族なんだからお母さんと呼んでくれた嬉しいかなー」
イリアは目を輝かせてアデルにすり寄ってくる。
黙ってれば,プロポーションもあり,風に靡けば幻想的な銀髪,野性的な小麦色の肌で凛々しい戦乙女の
ような風貌のハンサム美人,そんな彼女がぶりっこのように見つめるというギャップに大抵の男性は墜ち
てしまうだろう。
普段無愛想なアデルもまた例外ではなかった。
「………お,おかあ……さん」
そっぽ向きながらも辿々しくお母さんとアデルは言うのだった。
周囲から子供ながらも大人びていると言われているアデルも初恋の女性であるイリアの前では形無しだっ
た。
そんなアデルの様子をイリアは身体をプルプルと震わせて見ていた。
そして,アデルの後頭部に両手に回して,豊満な胸に埋めていく。
「もうなんて可愛いのかしら!私,こんな可愛い息子を持ちたかったのよ!愛してるわ,アデル君!」
イリアはアデルの顔にキスの雨を降らせていく。
石化から復活したリンデはイリアにされるがままのアデルに気づき,引きはがそうとする。
「もうお母さん,何やってるんだよ!アデルが困ってるでしょ!この…って,ちょっ…むぐっ!」
アデルを引きはがそうとするものの,イリアとは体格も腕力も違う。
奮闘しているリンデにイリアは気づき,アデルと同じように抱き寄せる。
「リンデ,私がアデル君を可愛がってるからって嫉妬してるのね。けど,大丈夫!リンデも私の可愛い娘よ!んー!」
そして,リンデにもアデルと同じようにキスの雨を降らしていく。
こうして,リンデとアデルはイリアにもみくちゃにされていった。
「やれやれ,美人が三人揃えば姦しいと言ったところかな」
ダルトスもまた帰宅し,三人の微笑ましい様子にコメントを述べた。
「あら,お帰りなさい,あなた。美人だなんて照れるわね」
「お帰りなさいませ,ダルトスさん。美人って,俺男ですよ…」
「お,お父さん,助けて!お母さんに食べられる~」
イリアは初な少女のように頬を染め,アデルは女扱いされたことにキスマークまみれの顔を憮然とし,リ
ンデはキスマークと涙でぐちゃぐちゃになった顔で助けを求めた。
「イリア,ただいま,お前は今でも最高の美人だよ。アデルは下手な女性よりも美人だからな,それと私のことをお父さんと呼んでくれると嬉しいな。それとリンデ,お前が美人なのは認めるが,今の顔は……ちょっとしたホラーだな…。アデル,リンデ,二人共さきに風呂に入って身体の汚れを落としてきなさい。それから食事にしよう」
「うん!アデル,一緒に入ろう!」
リンデはアデルの腕を引っ張っていこうとする。
「おい!俺は男でお前は女だぞ!わ,分かってんのか?」
アデルはリンデの手を振りほどき,顔を赤くして怒鳴る。
「そんなん気にしないって!他の男ならともかく,アデルだったら家族だし,兄さんだし,それに…」
リンデは立ち止まり,顔を少し赤くして下を向く。
そんな二人の様子を生暖かく見守るダルトスとイリア。
「別にかまわないのではないか,アデルとリンデは家族で兄妹だしね。それにアデルだったら安心してリンデを任せられるしね」
「そうね,家族なんですもの。遠慮は入らないわ,リンデ。思う存分にアデル君を悩殺してらっしゃい」
二人はリンデに暖かいエールを送っていた。
二人の関係を押し進めと言わんばかりのものだった。
「というわけでお父さん達も良いって言ってるから行こうよ!」
リンデは剣の稽古で見せなかったような俊敏な動きでアデルの背後を取って,首根っこを掴んで浴室までずるずると引きずろうとする。
「悪い意味で大らかすぎるぞ!あの夫婦は!って,おい!リンデ!いくらなんでも…ひきずるなぁああ!」
アデルの悲鳴は浴室の扉が閉まる音と共に途切れるのだった。
「フッ,青春してるな」
ダルトスは二人の様子に笑った。
イリアも笑っていたが,ふと表情が沈んでいく。
そんなイリアの様子に気づき,ダルトスはイリアを自分の胸に寄せていく。
「どうしたんだ,イリア」
「ねえ,あなた。私ね,どんな過酷な戦場でも恐怖なんか感じたことなかったのよ」
「………」
「私は今の生活を気に入ってるの。あなたがいて,リンデがいて,アデル君がいて…けど…」
「この幸せ過ぎる生活がいつか壊れるんではないかと思うと怖くなった,か…」
ダルトスはイリアの言葉を先読みして言った。
イリアは顔を上げて,ダルトスの顔を見る。
ダルトスは安心させるようにイリアに微笑みかけ,抱きしめていく。
「あなたには全部お見通しなのね。そうよ,私は怖い。いつか《あの男》が私達の生活を壊しにくるんじゃないかって…。弱くなったものね。これじゃあ三聖者失格ね…」
「恥じることは無い。君は三聖者である前に私が愛する妻であり,リンデとアデルの母なのだからな。家族を失うことに恐怖を抱かないほうがおかしいだろう。私も怖いさ。それでも…」
ダルトスはイリアをさらに強く抱きしめる。
「私たちは守らないといけない。愛する家族を,故郷を」
「そうね,子供達の未来を守るためにも…」
ダルトスは抱擁を解く。
「さてと,夕食の準備をしないといけないな。イリア,これを捌いてくれ」
「ダルトス」
「何だ」
イリアはダルトスの唇に自分のそれを重ねる。
「愛してるわ…」
「私も愛しているよ,イリア」
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ミッドガルド付近に忍び寄る影。
「恩赦をくれるといっても割に合わない任務だな…」
「魔界に墜とされた方がマシだんたんじゃねえか?」
ぼやきながらも気配を殺して歩んでいるのは中級の天使兵。
50人ほどの部隊でミッドガルドへと潜入しようとしてたときだった。
「いや,魔界に墜とされどころか,それ以上に恐ろしい《あの御方》に消されてしまうぜ…」
「《あの御方》って誰ですか?」
比較的まだ若い天使兵が先輩天使兵に聞いてくる。
「極秘で編成されているある特殊部隊の隊長らしい。恐ろしいのは天界きっての凄腕の拷問官であることだ…」
「ご,拷問官…」
「第二次聖戦中期当たりから頭角を現したらしいが,注目されたのは捕虜にしたヒトなんだが,人類軍の中でも重要なポストに就く者だったらしく,気位の高い難儀な性格の奴だったらしい。当然,要職についてたことだから重要機密を持っていることは予想されていた。そのときに尋問を任されたのが,その《あの御方》らしい」
「で,その捕虜は吐いたのですか?」
「吐いたのはではなく,吐かされたというべきだな。およそ筆舌し難いほどの拷問をして,魔界の堕天使も真っ青なほどの残虐な方法だったらしい。まあ,それで人類軍に対し,戦況を優位に進めれたわけだが…」
「魔界の堕天使も真っ青な残虐な拷問ですか…」
『無駄口はそこまでにしておけ』
天使兵達の耳に無機質な声が響く。
「クライアント」
音も無く,幽霊のように現れたのは漆黒のフードを身に纏い,顔を伏せている者。
フードの者こそ,今回の作戦の実行隊長である。
天界の律法を犯し,魔界の墜とされる天使兵に恩赦を与える代わりにこの任務を与えた者。
「お前達は黙って任務を遂行すればよいのだ。さすれば,恩赦が下され,晴れて自由の身となるのだからな…」
天使兵はフードの者が放つ威圧感に声を失っている。
「だが,失敗すれば,お前達は《隊長》が新しくお考えになられた拷問法のサンプルになるだろうな…」
フードの者は笑う。
天使兵は顔面が蒼白になっていく。
「安心しろ。お前達の果たすべき最低限のことはその《棺》をミッドガルドへと放つことだ。至極簡単な任務だろう」
《棺》
それは天使の翼により編まれた縄で幾重ほどの厳重に緊縛した棺だった。
『ググ…ガァ…ア…ア』
棺には獣が唸るような声が聞こえていた。
それは棺から出ようと縄を破ろうとあがいているようだった。
早くこの棺をミッドガルドに捨てていきたい。
天使兵の誰もがそう思っていた。
「クククッ…,ダルトス様,イリア様,もうすぐです。もう少しで安息の日々に終わりの時が告げられますよ…。この棺が破滅への序曲となるのですからね…」
刻々とミッドガルドに影が忍び寄っていた。