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Criminal Snow  作者: しんとうさとる
第二章
22/23

第2-11~2-12章

最終話と一緒に投稿しようと思ったけど、まだ時間掛かりそうだから先にあげます




-11-





眼を開けると色あせた景色があった。

場所はどこだろうか。ハルは記憶を探る。今、眼に入ってきている風景は確かに見覚えがあって、その場所に足を運んだ事もある。それは確か。だがそれが何処なのかがハッキリと思い出せない。

やがて景色が進んでいく。しかしハルは動いていない。いや、動くことができない。手足どころか指一本動かせず、まばたきすら怪しい。それなのに視点だけは動いていって景色は流れていく。

ハルは動くことを諦めて見える世界を眺める事に専念することにした。三六〇度のスクリーン。その中に広がる景色は少しずつ変わり、時折ノイズが走ったり、色が鮮明になったり、また逆にモノクロに変わったりしている。小さな町らしく、よくある山間の田舎の町並みが広がっていた。しかし今は、あちこちから火の手が上がり、恐らくは平和だっただろう町の普段の光景は微塵も残されていない。聴覚はノイズ混じりの悲鳴と爆発音を捉え続けている。

突如視界が加速する。家々は一本の線になり、視界は広く、意識の端で注意を方方に散らしながらも視点はただ一箇所を捉えてぶれない。

視界の中心にいた武装した兵士が背を向けて逃げ出す。時折こちらを振り向いて発砲し、その度に視界が揺れて風切り音がリアルさを以てハルへと伝わってくる。

視界の中の男の姿が大きくなる。視界の持ち主は執拗に男を追いかけ続け、ロバーの男は必死で逃げる。顔を歪ませ、迫り来る恐怖に怯えながら逃げ続ける。

やがて手の届く範囲まで迫る。逃げ続けた男は、近くにあったドアを掴む。恐らくは民家の中へ。追いかける主も取っ手をつかみ、乱暴にドアを開け放った。


「来るなぁっ!!」


音質はひどく悪いのに、男の恐慌した声ははっきりとハルにも届いた。叫び声はかすれ、震える。手に持った剣を主に向かって突き出し、牽制する。だが視界の主はそれを気にした様子も無く、男に向かって足を進めた。

不意に視点が男からずれる。視界の中心は男から奥の部屋へと動き、その壁際には隠れている何かの影。夫婦と思われる男女がうずくまり、恐怖に震えていた。

男は二人の存在に気づいていなかったが、主の視点が自分から外れた事から夫婦の存在に気づく。

ハルは直感した。それは視点の持ち主も気づいた様で、夫婦から注意を逸らそうと男に向かって走りだした。だがそれは悪手でしか無い。

男は壁際の女の手を掴むと強引に引き寄せた。夫の方は何かを叫んで手を伸ばしているが、その声は聞き取れない。ただのノイズとして処理されている。

男は女をそのまま主の方へと投げ飛ばした。投げ飛ばされた女性、視点の持ち主、男の行動。それらからハルが結論を導き出し、そしてそれは寸分の狂いもなく現実となる。

急激に色褪せる世界。黒ずんだ血液が女性の体から噴出し、それと同時に景色は黒く染められていった。






光が差し込んだ。突然の太陽の暴挙にハルは顔をしかめ、左手で目元を覆い隠す。まぶた越しの柔らかい光に、視神経を少しずつならしてそっとまぶたを再び開く。

何度か瞬きをし、ぼやけた視界が次第に焦点を結び始める。そうして最初に認識できたのは、薄汚れた天井だった。それ以外の感想を零し様が無い、無機質で面白みも何も無い。何とは無しに体を動かしてみればサラリとした肌触りのシーツが触れる。顔を横にすれば花瓶が水平に立っていて、そこでようやく自身がベッドに寝ている事をハルの頭脳は認識した。

視界はハッキリとすれども、頭の中は相変わらずハッキリせずに何も浮かんでこない。それでも時間が経つにつれて機能はいつもの調子を次第に取り戻してくる。頭の回転が鈍いことに少し不安を感じ始めていたハルだったが、段々とまとまりだした思考にそっと安堵のため息を吐き出した。

瞬間。


「ぐ……あ……あぁ……!」


突如としてハルの口から苦悶の声が溢れる。目元に置かれていた手で頭を抑え、掴み、ギシギシと頭蓋がきしむ。眼は大きく見開かれ、その焦点は細かくブレて定まらない。両手で頭を抱え込んだままベッドの上でうずくまり、全身を震わせる。呼吸は荒く、整えることすらままならない。


「ひ……あ…がぁ……」


全身から汗が噴き出して震えはますますひどくなる。ハルは頭をかきむしり、枕に押し付けて耐えるが頭痛は止まない。苦痛にハルの顔がひどくゆがむ。

涙にぼやけるハルの眼に、チェストの上に置かれた見慣れたカバンが眼に入る。ハルはすがる思いでそれに向かって手を伸ばした。

しかしそれへの距離はハルの認識よりもはるかに遠く、掌は空を切りハルはベッドから落ちる。強かに体を打ちつけ、そばにあった点滴をぶら下げた点滴棒が倒れて腕に刺さっていた針がずれる。だが、その痛みも頭痛にかき消されて何も感じない。

奪われていく、感覚。もはや自分が何をしているのか、それさえも上手く認識できない。痛みに埋め尽くされた思考の中で、ひたすらにハルはカバンの中を漁った。


「ハルっ!!」


音に気づいたアンジェが慌てて部屋へと駆け込んでくる。カバンの中身をひっくり返し、ただならぬ様子で何かを探すハルを見て戦慄を覚える。



「はあっ、はあっ、く、はぁ……」


物が散乱した床の上に、ハルはやっと目的の物を見つけた。小さな、茶色の小瓶。震え続ける手でそれを掴むと、蓋を投げ捨てて口の中に錠剤を流し込む。

噛み砕く音がアンジェの耳にも届く。グッタリとベッドにもたれかかっていたハルの手からは小瓶が転がり落ち、ハルは荒い呼吸のまま目を閉じて気持ちを落ち着ける。


「ハル……?」


アンジェの呼びかけにハルは小さく眼を開けてアンジェの方を見遣る。そしてグッショリと濡れた額に髪を張り付かせたままわずかに笑ってみせる。

大丈夫だ。言葉にはしていないが、そう言っているのがアンジェは分かった。

呼吸が落ち着き、最後にハルは大きく息を肺から吐き出す。ややうつろな眼で手からこぼれ落ちた小瓶を見つめ、それを握り直すと無言のまま立ち上がって汗に濡れたシャツを脱ぎ始めた。

アンジェは慌ててハルに背を向ける。赤い顔で背を向けてから、別に気にする必要無いんじゃないかと気づいたが、今更ハルの裸を見るのも妙な気恥ずかしさがあって背を向けたままにする事にした。


「ハル……」

「何だ?」

「その……大丈夫なんですか? ずいぶん苦しそうでしたけど」


苦しそう、という言葉が適切なのだろうか。苦しいという言葉では表現できないほどに先ほどのハルは荒れていた。見ていた自分が寒気を覚えるほど、ハルはハルでは無かった。


「ああ。問題ないよ。

それより、アタシはどれだけ寝ていた? 寝てた間の事を教えてくれ」

「……ハルが意識を失っていたのは二日間です。その間、まったく動かなくて、正直死んでるんじゃないかと何度も思いました。本当に心配したんですよ!?」

「そりゃ悪かったな。それで?」


ハルは何でもないかのように軽くアンジェの言葉を流して続きを促す。アンジェは何かを言おうと口を開きかけるが、言うべき言葉が見つからず顔を伏せた。


「駆けつけたギルトの人たちにリーナさんが頼んでくれて、ハルをギルトに運んでもらいました。そこでお医者さんにも見てもらいましたけど、特に異常が見つからないって事だったんで、そのままブルクセルまで帰ってきました」

「そうだろうな。てことはここはブルクセルの病院か?」

「はい。ロッテリシアさんの好意でギルト職員用の医務室を貸してもらいました」

「好意、ね……」


ハルは皮肉げな笑みを浮かべた。


「テティとリーナは?」

「テティちゃんは怪我は無いみたいだったんでお家に帰りました。リーナさんは昨日はお見舞いに来てくれましたけど、今日は仕事で忙しくて来れないって言ってました。二人とも心配してましたよ」

「そうか。なら二人にも礼を言いに行かなきゃいけないな」


言いながらハルは背を向けたアンジェの後ろを通り過ぎていく。アンジェが振り向くとすでにいつもの服に着替えていて、荷物を肩に持って病室を出ていくところだった。


「ちょ、ちょっと!!」

「なんだよ?」

「まだ寝てないとダメですよ! 二日も意識が戻らなかったんですよ!?」

「寝過ぎたくらいだな」

「お医者さんにも診てもらわないと!」

「問題無いって、さっきお前が言ったじゃねーか」

「……病気、じゃないんですか?」


ピタ、とハルの足が止まる。


「さっき飲んでたのはお薬ですよね? さっきの様子も尋常じゃなかったですし、本当はどこか悪いんじゃないんですか?」

「さて、ね」

「はぐらかさないで下さい。病院に行きましょう、ハル。ここじゃなくて他のちゃんとした病院に。そうですよ! そうすればきっと……」

「アンジェ」


背を向けたまま、振り返らずハルは名前を呼んだ。それは重い声だった。全てを拒絶するかのようで、アンジェの動き全てを束縛する。

ハルはそのまま歩き出した。アンジェはその背中を見つめたまま動かない、動けない。脚が固まって、何かがアンジェをその場所に縛り付けている様。


「とりあえず……飯食いに行くか?」


ニカッとハルはアンジェに笑い掛けた。それでようやくアンジェの脚は解放された。





-12-





「マジかよ……」


扉を前にしてハルはぼやいて項垂れた。その隣でアンジェも呆然と立ち尽くし、同じように項垂れた。それに追い打ちをかけるように彼女たちの腹からは不機嫌そうな音が響く。それが二人の脳裏に先日食べた料理の数々を思い浮かばせて、更に腹音が空腹を訴える。ガックリと、抜け落ちそうな程に肩を落としながら、ハルは恨めしげに正面のドアに張ってある張り紙を見上げた。


本日、臨時休業


書かれていたのはシンプルにそれだけ。だがそれで十分状況は伝わる。

要は上手い料理を食えない。ただそれだけ。テティのおばさんに何かあったのか、それともどっか旅行にでも行って留守なのか。


「テティにも会いたかったんだけどな。しゃーないか」

「しょうがないです。また明日来ましょう」


アンジェに促されてハルは歩き出す。が、名残惜しそうに振り返って食堂を見てみる。当然、突然にドアが開くなんて事は無い。深々と、もはや癖になっているため息を吐きながらレストラン街の方に歩いて行く。

細く臭い路地を抜け、やかましいほどに賑やかなレストラン街にたどり着く。この通りは溢れんばかりに美味な香りが漂っているのに、どうして路地にはこの匂いが流れて行かないのだろうか。そんなどうでもいい事を考えながら、ハルはアンジェと別れてレストランを探す事にした。

この街に初めて来た時と同じように、ハルはラスティングで視力を強化して空いてそうな店を探す。通りを占める人の数は、心無しこの間よりも少ない。だがやはり昼時のせいか、どの店も客が溢れていてとてもすぐに料理にありつけそうな場所は無い。


「ハルー、どうでした?」

「んー、ダメだな。どの店も並ばなきゃいけなさそうだ。そっちは?」

「私も似たようなものですねー。どうします?」

「昼抜きとかいう選択肢はねーだろ。ちっと我慢して並ぶか」


とは言え、ここは妥協しない。漂う香り、出てきた人の顔や店の造り、それらを加味して総合的にレベルの高そうな店をハルは探し出して行列の最後尾へと二人は並んだ。

並ぶ事およそ三十分。二人の空腹具合もいい加減限界に達しそうな頃、ようやく店内へと案内された。


「やっとご飯を食べられますね」


幸運にも二人が通されたのはテラス席。通りの喧騒が聞こえてきて、だが少しだけ地面より高くなっているためか通りの中の様な息苦しさは感じない。ハルが通りから向かいに座るアンジェに視線を移すと、アンジェはニヤニヤしながらメニューをめくっていた。


「どうせ片っ端から頼むんだからメニュー見る必要ねーだろ」

「わかってませんね、ハルは。こういうのはメニューの写真を見ながら眼でも予め味わっておくものなんですよ? ああ、見てください、このハンバーグの写真! 美味しそうで美味しそうでヨダレが止まりません!」

「スイマセ~ン、注文いいですか?」

「流された!?」

「悠長にお前の趣味に付き合ってられるか」


そう言うとテーブルにやってきたウェイトレスにいつもの様にハルは注文し、そしていつものように引かれた。まあ、いつものことだ。特に二人も気にした様子も無く、慌てた様子で去っていくウェイトレスをハルは見送った。「あの娘、可愛かったな」とかつぶやきつつ。

と、残念そうにメニューを持っていったウェイトレスを見ていたアンジェが立ち上がる。


「どこに行くんだ?」

「お手洗いです。美味しいご飯が来る前にお腹を空かせてきます」

「ああ。んじゃ存分に出してこい」

「……下品ですよ?」


口を尖らせて抗議するアンジェに、ハルは手をヒラヒラとさせてアンジェを促す。アンジェはジト目でハルを睨んでいたが、すぐに店の奥のトイレへと消えていった。

それを見送り、ハルは顔を店内から外の大通りへと動かした。

少し高い所から見下ろす景色は、道を歩いている時と比べると少しだけ違うがそう特別変わるものでもない。違うのは道行く人の表情が見えないだけ。何を考え、何を目的に生きているのか。笑顔を浮かべている人は何が楽しいのだろうか。何に幸せを感じているのだろうか。店から出てきた人を見る。料理が美味かったのだろう。だがそれは幸せか。寄り添って歩く男女を見る。幸せそうだ。だが二人でいることが幸せに繋がるのだろうか。想像してみるが、予想もつかない。

自分を顧みてみる。ここまでの二十六年間、何か幸せに繋がるものを感じてきただろうか。生まれてこれまでの人生で、ハルは幸せを感じた事が無かった。それはノイマンとして生まれてきたが故に抱えてしまった彼女の唯一にして最大の「欠陥」だった。

彼女は親に愛されて育った。幼くしてノイマンとしての能力が開花し、生まれ持った身体能力も周囲より優れていた。家族にも周囲にも恵まれ、戦時下においても生きるのに苦労することも無く、誰よりも幸せを享受できる環境にもあった。

だが、ハルは「幸せ」というものを感じ取ることができなかった。

感情が無いわけではない。むしろアンジェほどでは無いが、表情は豊かな方で、感受性も豊かだった。プレゼントに喜び、理不尽さに怒り、戦争に哀しみ、友人との会話を楽しむ。それでも、何かが欠損していた。それらの感情が幸せへと繋がる一本の線。同時に不幸へと向かうそれが、彼女には無かった。

だから彼女は生きていなかった。生きている、その感覚が無かった。その事を自覚した瞬間、彼女の中で全てが崩れ落ちていった。その感覚は今でもはっきりと思い出せる。

今まで自分が感じていたもの、それらが全て表層的なものに過ぎなかった事。心から喜び、怒り、哀しみ、楽しんだ思い出が急速に無色に変化していった。


「後……」


どれだけ自分は生きられるだろうか。その言葉をハルは飲み込んだ。だが言葉にはならなくとも、自分に残された時間は短い。それは事実で、だからハルは曖昧で観念的なものに過ぎない「幸せ」が何であるかを見つけ出したかった。


「おや?」


足元から声がした。ハルが視線をやや下に下ろすと、ハルの口からもまた「ああ!」と驚きの声が漏れた。


「お久しぶりですね。あの後、どうしてるものかと思っていましたが、無事だったようで何よりです」

「アンタの方も無事だったんだな。ノイエン」


声を掛けてきたのはノイエン・ケルトナーだった。歴史学者を名乗り、かつてサリーヴの街でハルとアンジェに失われた歴史に関する手掛かりを尋ねてきた男で、理知的だが丁寧な物腰と飽きさせない豊富な話題で以前に会った時に、二人共楽しませてもらっていた。


「あの後お二人と連絡を取りたかったんですけど、大変な騒ぎでしたし、スポンサーからも早くあの街を離れろと言われましてね。お二人に何も言わずに別の街に行ってしまったんですよ。ですが、こうして元気な姿を見られてホッとしてますよ」

「まああの時はしょうがないさ。それに、こうしてお互い無事を確認できたんだし、問題ないだろ?」

「そうですね。ところで、もう一人……アンジェさんでしたか? 彼女はどうしたんです?」

「アイツなら今用足しに行ってるよ。もう少しすれば帰ってくるさ。それよりも、せっかくの再会だ。急いでないなら一緒に飯でもどうだ?」

「お昼はもう頂きましたが、そうですね、確かにせっかくの機会ですし、少しだけご一緒させて頂きますよ」


そう言ってノイエンは植え込みを飛び越え、手を伸ばしてテラスの柵を掴むと、軽々と飛び越して空いていた椅子に腰掛けた。それを見てハルは眼をパチパチとした。


「……アンタ、意外と運動神経あるんだな」

「まあ、私もノイマンの端くれですしね。それに、旅をしてる以上逃げ足くらいは鍛えておかないと危ないですから」

「それもそうか。まあ、戦争が終わったと言ってもまだまだ世の中物騒だしな。

そういや、アンタの護衛はどうしたんだ? なんて言ったっけな……確か、ぺ、ぺ、……」

「ペリクレスですね。シュベリーン・ペリクレス」

「そう、そいつ。奴はどうしたんだ? 一緒じゃないのか?」

「彼もまだ私の護衛をしてくれていますよ。ですが……彼は仕事熱心でしてね。私が行こうとする所にいちいちあそこはダメだ、あそこは危険だから近寄るな、と制限してくるんですよ」

「そりゃまた意外だな。アンタの母親かよ」

「ええ、まったくです。だから今日はこっそり抜け出してきちゃいましたよ」

「反抗期の息子か、アンタは」


久々に出会った二人だったが、それだけに会話は弾む。サリーヴの次は東の方に足を伸ばしてみただの、南の海はキレイだっただの、サリーヴから北に向かうと山の中に妙な建物があっただの。中にはノイエンが調べている歴史に関係がありそうな話もあり、それを聞いてノイエンが細かく研究ノートに書き記したりしていた。


「いや、本当にハルさんには助けられてばかりですね。戦争が終わってもまだまだ散発的な戦闘は各地で起きてますし、旅をしてる人が少ないですから中々情報が入ってこないんですよ」

「そうだよなぁ……サリーヴの件といい、いろいろと禍根は根深いしな。誰もがいつか、平和な世の中になればいいとは思うんだけど」

「そう遠くない未来に、きっとそんな世界が来ると思いますよ。私はそう信じていますが」

「そうかねぇ……だと良いけどな」


ハルは顔を伏せ気味にして小さく笑う。そのまま通りの方へ視線を向けると、眼を細めて遠くを見つめた。

ノイエンの前に注文したコーヒーが運ばれてくる。黙りこんでしまったハルを見て、そしてコーヒーを一口、口の中を湿らせる程度に含む。ソーサーにカップが触れてカチン、と音がした。


「何か、悩み事ですか?」

「ちょっと、な。他人に聞かせる様な話じゃないから、気にしないでくれ。悪かったな」

「私で良ければ聞き役になりますよ。ありふれた言葉ですが、話すだけでも楽になることもあります。

それに、近しい人ほど聞かせたくない話だってありますから」


ハルは逡巡し、チラリとノイエンを見た。考えこむようにうつむいて、体を通りに向けたまま口を開く。


「アタシは、幸せになりたかったんだ」


そう切り出したハルは、ポツポツとかつての自分をノイエンに語る。生きる実感の乏しい毎日、能力が強くなっていくに従ってそれは失われていく。やがてたどり着くのは傭兵という職業。


「どこの戦場だってアタシは喜んで向かっていった。どんな激しい戦闘だって参加した。他の誰もが尻込みするような場所でもな。死が怖くなかったわけじゃない。毎日誰かが死んでいくんだ。夕べ話してた奴が次の日には頭ふっ飛ばされてたなんて事も珍しくは無かったし、手足がちぎれた人間が助けてくれってはって寄ってくるんだ。怖かったよ。でも、死と隣り合っている瞬間だけは、少しだけ自分が生きているんだと感じる事ができた。その感覚を忘れたくなくて、続けたんだ。人殺しを――」


そうやって来る日も来る日もハルは戦い続けた。メンシェロウト側だろうがアウトロバー側だろうが関係なく、敵を殺し続けた。その自らを顧みず最前線で戦い続けた彼女はやがて『魅入られし兵隊』アフィールド・リーパーと呼ばれ、周囲は彼女から離れていく。それでも、彼女は人を殺め続けた。


「今思えば、楽しかったんだろうな。初めて生きていたんだから。でもそれは他人の死の上でしか成り立ってなかったんだ。アタシが幸せを感じるために他の誰かが不幸になる。それはずっと昔から気づいてたのかもしれないけど、それに蓋をして戦場に立ち続けた。でも、それは無理な話だったんだ」


彼女は気づいてしまった。その哀しさに。その罪深さに。体はすでにボロボロで、全力で戦うことが不可能になった時にその感情は一気に押し寄せてきた。だが彼女は涙を流さなかった。身を焦がすような後悔に狂うことさえ自身を許さなかった。

そして彼女は旅に出る。別の幸せを探すために。各地を周り、いろんな街でいろんな人を見ていった。

その中で、いつしか後悔は徐々に記憶の底に沈んでいき、風化していく。


「でも思い出しちまったんだよな。いつの記憶かは知らねーけど、どっか北の国でさ、夫婦を殺しちまったのを。

どうしようも無いクソッタレな自分だったけど、アタシは民間人は殺さなかった。例えそれが戦争中の事故であっても。それだけはやっちゃいけないって思ってたんだ。最後のラインっていうかな? そういうのがアタシにもあった。でも、やっちまったんだよな。最後の最後でさ。その瞬間、自分の中にあった大切な物が崩れていった気がして、アタシはそれを忘れたくて忘れたくて、ついには本当に忘れてしまったんだ。一番忘れちゃいけない事なのにな。

で、その事を思い出した時にさ、思ってしまったんだ。こうしてアタシは自分の幸せなんか探してていいんだろうかってな。

最高にくだらない話だろ?」


ハルは自嘲した。それきり黙りこむ。話を聞いていたノイエンも何も喋らない。店内の喧騒通りの喧騒が混じり合い、打ち消しあう。騒がしいはずの辺りが妙に静かになったような錯覚に陥る。

話し始める前と同じように、ノイエンはコーヒーに口をつけ、香りを楽しむ。カチャ、とまたソーサーに触れたカップが音を立てる。


「……何も言ってくれないんだな」

「私は聞き役ですから。それ以外の役割は請け負ってはいませんよ?」

「冷たいんだな、アンタ」

「いやぁ、褒められると照れますねぇ」

「褒めてねーよ」


そう言ってハルは口を尖らせる。一方のノイエンは笑みを浮かべてコーヒーを飲み、そのままハルに笑い掛けた。

しばらく口を尖らせたままだったが、不意にハルは表情を緩めて笑った。マントの内ポケットからシガーケースを取り出して火を点ける。


「ま、確かに楽になったかな? 少しだけだけど」

「お役に立てましたか?」

「まーな。ありがとさん。感謝するよ」


礼を聞き、ノイエンは「いえいえ」と小さく横に首をふって笑顔を浮かべる。そして右手首につけた腕時計を見ると一息にコーヒーを飲み干し、立ち上がった。


「ちょうどいい時間ですね。それじゃあ私はここで失礼しますよ」

「もう、か? もう少しすればたぶんアンジェも帰ってくるだろうし、もうちょっとゆっくりしていけよ」

「そうしたいのは山々なのですが、さすがにこれ以上フラフラしてるとシュベリーンに怒られますから。知ってますか? 彼って怒るととても怖いんですよ?」

「どのくらい?」

「…………」

「いや、いい。ゴメン、聞いたアタシが悪かった」


笑顔を浮かべたままカタカタと小刻みに揺れ始めたノイエンに向かってハルは頭を下げた。どうも悪いことを聞いてしまったらしい。

無事現世復帰したノイエンは「失礼」とだけ告げると、出口の方に向かって歩く。と、足を止めてハルの方を振り返った。


「私に言える事があるとしたら」


ハルはノイエンの顔を見上げた。


「貴女はきっと許されない。誰かが許してもきっと他の誰かが許さない。何より、貴女自身が許さないでしょう。そしてそれをずっと背負って生きていくでしょう。でも、貴女が自身の幸せを求めてはいけない理由はどこにも無い。幸せを求める行為を妨げることは何人もできない。だから、貴女は貴女のまま幸せになって下さい。許されないままに」


そう言い残してノイエンは去っていった。

ハルはその背中を見送りながら考えこんでいたが、「参ったな」とつぶやくとタバコをくわえたまま頭を掻いた。


「遅くなりました。いや~、トイレが一つしか無くて、危うく漏らしちゃいそうでした」

「存分に出してきたか?」

「出しきってきました」

「下品だな、おい」


ハルがふってきたんじゃないですか、と文句を言うが、ふとアンジェは気づいた。


「何かあったんですか? さっきまでと表情が違いますけど」

「そうか?」

「そうです。ずいぶんと明るくなったと思いますよ」


そうか、とつぶやいてハルは小さく笑い声を漏らした。


「そうかもしれないな」





◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆





「行くのかい?」


締め切られた室内で彼女は二人に尋ねた。尋ねる彼女に男は背中を向けたまま無言で、その隣りの女性は「ええ」と短く返事をした。


「あたしは残念だよ。まさかあの娘がアンタの敵なんてね」

「私も信じたくないわ。だって彼女はとてもいい人だもの」

「……どうにもならないのかい?」

「どうにもならないわ」


そう応えて彼女は大きなポンチョに似た外套を羽織る。まだ買われたばかりの、綺麗なエンジ色のそれの着心地を確かめ、鏡に向かって自分の着姿を眺めた。男は壁に立てかけられた巨大な十字架を手に取ると、背負ってベルトで体に固定する。


「あの人は私の憎むべき敵。今更それを止めることはできないわ。

だって、それは私に死ねと言ってるのと同義だもの」

「……あたしはアンタに幸せになってほしいと思ってる。だから、止めろとは言わないよ。

けど……ままならないものだねぇ……」

「それには私も同意するわ。でもね、きっと、これが上手くいってもいかなくても私はもう幸せになれない。それは知ってるけれども、もう止まれないし止まる気も無いの」


中年の女性は黙って後ろ姿を眺める。彼女から見えるのは、小柄な女性だ。少女と言っても差し支えないくらいにとても小さくて、手も足も彼女よりもずっと細い。

しかし、少女はもうすでに少女では無い。体の成長が止まったまま、少女は女性になってしまった。憎しみに身を焦がし、その憎しみを晴らすためだけにこれまでの生涯を生きてきてしまった。全てを犠牲にして。


「じゃイキましょ。

それと、後の事は打ち合わせ通りお願い」

「分かってるよ。いってらっしゃい」


男がドアを開ける。暗かった部屋に光が差し込む。二人の短いシルエットが床に落ち、内と外をまたぐ。


「それじゃあね。

さよなら――」


影は、家から離れていった。




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