ひきこもり(ニート)がプライドが高いと言われる理由 ――前提が違う、という話
働かない人間はプライドが高い、とよく言われる。
この文章はその言葉に疑問を持ったところから始まりました。
批判でも擁護でもなく、前提の違いについて考えたものです。
文章の構成と校正にAIを用いています。
ひきこもり(ニート)がプライド高いと言われる理由について ひきこもり(ニート)はプライドが高いということを聞いたことがないだろうか。
ひきこもり(ニート)ができることなど知れているのに仕事を選んで働かないダメなやつだ、という趣旨で私は見聞きした経験がある。
これに対して私は、そもそもの前提が違うのではないだろうか、と疑問を抱いた。
結論から述べると、生きることが選択として始まる人(以下前者)と生きることが前提で始まる人(以下後者)は、世界観が異なるのではないだろうか。 そして後者は前者が理解できず、仕事を選んでいる。プライドが高い。そう表現しているのだと私は考える。
前者と後者を「働いていない人」と「働いている人」で分けないのは理由がある。
私は前者でも働いている人がもちろんいると考えているし、現在働いていないからといって前者の考え方を持っているとは考えていないからである。
私は前者についてだが、その「生存自体を迷う」考えを社会に出る前から持っている人はいないと考えている。
「生きるかどうか」が選択肢にあがるようになるには、社会で傷ついたという経験を重ねたのではないだろうか。
こういった積み重ねにより、社会に参加すること、ひいては生きることそのものが重く感じられるようになる。
そして生存自体を迷う人が生まれるのだろう。
後者の「生存を前提としている」人については、前者の逆で社会での傷つき経験が少なかった人だと考えている。
傷ついた経験を乗り越えられた人や、深く傷ついた経験が少なかったり、同じような傷ついた経験があっても切り替えがうまくいった人たちではないだろうか。
同じような体験をしてもどう受け取るかは個人によってちがうから、経験自体が少ない人も、経験が多くても乗り越えてきた人もいるだろう。
彼らにとって傷ついた経験は失敗談として次は気を付けることでしかなく、生きる上での重いコストにならない。
なにかあっても乗り越えるなり避けるなり対処法があると考えて、「生存を前提としている」ことが崩れないのではないだろうか。
結論として、生きることが選択として始まる人と、生きることが前提で始まる人は同じ社会に住んでいても世界観が異なるのである。
後者からは、前者が甘えや逃避に映り、仕事を選り好みし、プライドが高いと評価する。
いままでの経験から世界観が異なり、前提となる位置が異なるのである。
働いている人が働いていない人に向ける不満は誰もが理解できるものだろう。税や社会保障負担の金額に大きな差があるのも事実である。
私にはひきこもり(ニート)がどうしたら再び社会参加をするとか、そういったことはわからない。
ただ、前者と後者が連続した存在であり前者が後者だった以上、強い断定による人格否定や存在否定することは、自身が批判される立場になるとその言葉がそのまま自分に返ってくる。
互いの立場を理解することは難しい。
だがせめて連続した存在であるということは忘れないようにすべきだろう。
答えを出せた文章ではありません。
ただ、同じ社会に生きていても出発点が違う人がいる、ということだけは伝わればと思います。
読んでいただきありがとうございました。




