ー第4節 生きる苦しみから完全に解放されたユイ。能力による争いが心底どうでもよくなり「目の前の人に安らいでもらいたい」という純粋な奉仕の心だけが彼女の胸を満たしていく。
第4節 生きる苦しみから完全に解放されたユイ。能力による争いが心底どうでもよくなり「目の前の人に安らいでもらいたい」という純粋な奉仕の心だけが彼女の胸を満たしていく。
おつまみが消えた後の給湯室で、ユイはしばらくの間、呆然と立ち尽くしていた。
しかし、その瞳にはもはや先ほどの絶望の影はなかった。胸の奥に詰まっていた重苦しい鉛のような塊は跡形もなく消え去り、代わりに、春の陽だまりのような温かく穏やかな光が満ちていた。
「……私、なんであんなに泣いてたんだろう」
ユイは自分の頬に残る涙の跡を指で拭い、小さく微笑んだ。
不思議な感覚だった。生きる上での避けられない苦しみや不安から、『究極の解放』を得たかのように、心が羽が生えたように軽い。
会社での地位、役職、TOEICの点数、プレゼンの勝敗、マウントの取り合い。つい先ほどまで自分を押しつぶそうとしていたそれらの重圧が、今のユイにはどうしようもなくちっぽけで、心底どうでもいいものに思えた。
「能力がないからって、それがなんだっていうの。私は私だもの」
他人と比べて勝った負けたと一喜一憂するゲームから、彼女は完全に降りたのだ。
自分は専門スキルを持たない底辺の派遣社員かもしれない。でも、給湯室をきれいに掃除することはできる。誰かがホッと息をつけるように、温かいお茶を淹れることはできる。
それでいいじゃないか。誰かを見下して虚栄心を満たすよりも、目の前にいるたった一人の心を少しでも温めることができたら、それこそが私にとっての『現世での至高の境地』なのだから。
ユイは深く深呼吸をした。冷たい空気が肺の隅々まで行き渡り、全身の細胞が新しく生まれ変わったかのように活性化していくのを感じる。
「よし。お仕事、戻らなきゃ」
そう呟いて、ユイはシンク周りをきれいに拭き上げ始めた。これまでは「やらされている雑用」だったものが、今は「ここを使う人が気持ちよく過ごせるための大切な時間」に変わっていた。
やがて、彼女は戸棚から普段使いの安価なほうじ茶のティーバッグを取り出した。そろそろ午後の休憩時間だ。フロアのみんなが少しでもリラックスできるように、とびきり美味しいお茶を淹れておこう。
ユイはお湯を沸かしながら、急須に丁寧に茶葉をセットした。その口元には、穏やかで慈愛に満ちた微笑みが浮かんでいた。
彼女は気づいていなかった。この精神的な究極の覚醒を経て、彼女の持つ「他者を想う心」が、物理法則や人間の限界を超越した凄まじい力へと昇華されていたことに。




