この街を歩いた
黒い傘は、空から降ってきた。
赤い液体を流し、地に伏せる人間を、覆い隠すように。
街の人間たちは、歩き去っていく。
そのまま帰路についた。
何が起きたのかは判然としない。
けれど、これから何が起きるのかは、なぜか分かっていた。
──ベッドに横たわり、目をつぶる。
だが、まぶたの裏側には、黒いものがへばりついていた。
黒いそれは、消えない。
何もできない。
そこに、ずっとある。
眠れないまま、夜が明けた。
意識を霧散させることは、できなかった。
やがて、浅い眠りの底で、
ザクザク、という聞き覚えのある音が、耳の奥に入り込んできた。
薄明かりの中、目を開ける。
カーテン越しに外を見ると、
大きな人影と、小さな人影が、
同じリズムで小刻みに揺れていた。
朝の支度を済ませ、外に出る。
ザクザク、ズンズン。
薄茶色の朝霜は、踏み固められていく。
楽しげな音とは裏腹に、
街は相変わらず、無味乾燥としていた。
「捕まるかもしれない」
その言葉が、喉の奥から這い出そうになる。
すると前方から、警察官が歩いてきた。
鼓動が跳ね上がり、
「引き返せ」と、頭の中で声がする。
足取りは、油の切れた歯車のようだった。
それでも、理性は、前を向くことを選んだ。
「この財布に、見覚えはございませんか」
差し出されたのは、
黒く、ぷっくりと膨れた財布だった。
ほのかに、酒の匂いがする。
一瞬の沈黙のあと、
戸惑ったふりをして、首を横に振る。
鼓動だけが、その答えを知っていた。
「……そうですか」
警察官は、わずかに俯き、会釈をして去っていった。
きっと、また棚は重くなる。
誰にも引き取られないまま。
歩き続けるうち、
気づけば裏路地に足が向いていた。
そこに、
どこかで見たことのある、黒髪の女性が立っていた。
生暖かい風が、頬を撫でる。
背中を這うように、鳥肌が立ち上がった。
「……おかえり」
透き通る声は、空に溶けるように消え、
意識が穏やかに薄れていく。
──パッポッ、パッポッ。
鳩の鳴き声に弾かれるように横断歩道を歩いた。
何をしていたのだろう。
頭の中に黒いノイズが流れ込み、記憶がうまく繋がらない。
この街で、いったい何を見てきたのだろう。
それとも、何を見なかったのだろうか。
それでも、足音だけは確かに響いていた。
僕は、はじめて、この街の中を歩いた。




