見られた夜
赤い液体は刃物を伝って、手のひらを滴り落ちていた。
その感触だけが、やけに鮮明に残っている。
──「……だから、うるさいんだよ」
その声は、今夜に限ったものじゃない。
皮肉が日常の会話で、嫌味が趣味の一環。
誰にでも悪態をつき、
他人を下に置くことで、
かろうじて立っているような人間がいる。
目尻がつり上がった笑み。
への字にひしゃげた口。
そこから吐き出される音は、聞くに耐えない不協和音となる。
真っ暗で、寝不足な街。
そんな人間たちが、当たり前の顔をして闊歩していた。
そこにも、あそこにも、そしてここにも。
残業終わりの深夜だった。
飲み屋街を抜ける近道。通らなければよかったと、後になって思う。
すれ違いざま、ほんの一瞬、視界に入っただけだった。
それが、気に障ったらしい。
「今、見ただろ」
知らない声が詰め寄ってきた。
理由はそれだけだ。
視線が“うるさかった”のだという。
「早く帰って、眠りたい……」
その小さな呟きは、口から漏れていた。
けれど、すぐにネチネチとした声にかき消される。
「社会はさ、気遣いだろ?」
「ちょっとした目線ひとつで、空気悪くなるんだよ」
「俺だってさ、今日は散々だったんだよ」
その言い分は、どこかで聞いたことがあった。
マナー。配慮。常識。
いつも、声の大きい人間の正しさだった。
気付けば、道を塞がれていた。
前にも、後ろにも行けない。
街の人間たちは、スタスタと、何も見ていないふりをして歩き去っていく。
ただただ、ストレスと虚無の時間だけが過ぎていく。
それと同時に、側溝に黒い油が溜まるように心が酷く濁っていく。
静かに、確実に、精神がギラついていく。
「……おい。聞いてんのか?」
声が遠くなる。
視界の端が、仄かに赤く染まっていく。
鼓動の音が、耳の内側を叩き続けていた。
ポケットの中で、指先が何かに触れた。
仕事で使っていた、ありふれた道具。
ただそれだけのはずなのに、手は自然と沈み込み、掴み上げていた。
近付いてくるのが、分かる。
逃げるよりも早く、体が動いた。
耳鳴りが止まる。
カチ、カチ。
金属の噛み合う乾いた音が、やけに大きく響いた。
次の瞬間、釣り上がっていた目が、苦痛に歪む。
人間は声にならない音を漏らし、倒れた。
赤い液体は、刃物を伝って、滴り続ける。
口をパクパクと動かしながら、何かを言おうとしていた。
けれど、その音は、もう不協和音ですらなかった。
深い沈黙が、街に落ちた。
コンビニの明かりが異様に光って見えた。
それでも。
何もなかったかのように、
この街は、平然としていた。




