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何も見ていない街  作者: TOMMY


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7/8

見られた夜

赤い液体は刃物を伝って、手のひらを滴り落ちていた。

その感触だけが、やけに鮮明に残っている。


──「……だから、うるさいんだよ」


その声は、今夜に限ったものじゃない。

皮肉が日常の会話で、嫌味が趣味の一環。


誰にでも悪態をつき、

他人を下に置くことで、

かろうじて立っているような人間がいる。


目尻がつり上がった笑み。

への字にひしゃげた口。

そこから吐き出される音は、聞くに耐えない不協和音となる。


真っ暗で、寝不足な街。

そんな人間たちが、当たり前の顔をして闊歩していた。


そこにも、あそこにも、そしてここにも。


残業終わりの深夜だった。

飲み屋街を抜ける近道。通らなければよかったと、後になって思う。


すれ違いざま、ほんの一瞬、視界に入っただけだった。

それが、気に障ったらしい。


「今、見ただろ」


知らない声が詰め寄ってきた。

理由はそれだけだ。

視線が“うるさかった”のだという。


「早く帰って、眠りたい……」


その小さな呟きは、口から漏れていた。

けれど、すぐにネチネチとした声にかき消される。


「社会はさ、気遣いだろ?」

「ちょっとした目線ひとつで、空気悪くなるんだよ」

「俺だってさ、今日は散々だったんだよ」


その言い分は、どこかで聞いたことがあった。

マナー。配慮。常識。

いつも、声の大きい人間の正しさだった。


気付けば、道を塞がれていた。

前にも、後ろにも行けない。

街の人間たちは、スタスタと、何も見ていないふりをして歩き去っていく。


ただただ、ストレスと虚無の時間だけが過ぎていく。

それと同時に、側溝に黒い油が溜まるように心が酷く濁っていく。

静かに、確実に、精神がギラついていく。


「……おい。聞いてんのか?」


声が遠くなる。

視界の端が、仄かに赤く染まっていく。

鼓動の音が、耳の内側を叩き続けていた。


ポケットの中で、指先が何かに触れた。

仕事で使っていた、ありふれた道具。

ただそれだけのはずなのに、手は自然と沈み込み、掴み上げていた。


近付いてくるのが、分かる。

逃げるよりも早く、体が動いた。

耳鳴りが止まる。


カチ、カチ。

金属の噛み合う乾いた音が、やけに大きく響いた。


次の瞬間、釣り上がっていた目が、苦痛に歪む。

人間は声にならない音を漏らし、倒れた。

赤い液体は、刃物を伝って、滴り続ける。


口をパクパクと動かしながら、何かを言おうとしていた。

けれど、その音は、もう不協和音ですらなかった。


深い沈黙が、街に落ちた。

コンビニの明かりが異様に光って見えた。


それでも。


何もなかったかのように、

この街は、平然としていた。

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