第91話:伝説の第一声
月面高度10,000メートル。
ロケットは、減速のための逆噴射を行いながら、灰色の地表へと降下していた。
窓の外には、無数のクレーターが口を開けて待ち構えている。
ついに、ここまで来た。
「高度3,000。……着陸地点は『静かの海』だ。自動制御で誘導しろ」
「了解! ……って、あれっ!?」
航法士のクロウが悲鳴を上げた。
「だめだ! 高度計と魔力レーダーが乱れている! 数値がめちゃくちゃだ!」
「なんだと?」
「地表から強烈な魔力干渉が出ている! これじゃ自動着陸は不可能だ!」
結城 晶は舌打ちした。
月の砂――『レゴリス』。
どうやら異世界の月の砂は、前世のそれとは違い、強力な魔力を帯びているらしい。その磁場ならぬ「魔場」が、精密な魔導回路を狂わせているのだ。
「警告! 制御不能! このままだと墜落します!」
警報音が鳴り響く。船内がパニックになりかけた、その時だ。
「自動は切れ。……ボルス、手動で降りろ」
晶の冷静な声が響いた。
「へっ、待ってました!」
主操縦士のボルスが、獰猛な笑みを浮かべて操縦桿を握りしめた。
「機械任せの着陸なんて退屈で死にそうだったんだ! 俺の腕を見せてやるよ!」
「燃料はギリギリだぞ。一発で決めろ」
「おうよ! どけぇぇ石っころ! ここが俺たちの駐車場だぁッ!」
ズガガガガガッ!
ロケットが暴れ馬のように振動する。
ボルスは神業的な反応速度でスラスターを吹かし、迫りくる岩山をスレスレで回避していく。
「右舷、岩塊! 回避!」
「燃料残量、5%……3%……!」
「うるせぇ! 足りるように使うんだよ!」
リナの悲鳴とガンドの怒号が飛び交う中、ロケットは噴射炎を巻き上げながら、最後の減速に入った。
「コンタクトまで、3、2、1……!」
ズズ……ンッ!
重い衝撃が、足元から突き上げた。
船体が大きく傾き、ダンパーがきしむ音を立てて――そして、静止した。
「…………」
恐ろしいほどの静寂が訪れる。
ボルスが、ふぅと息を吐いてスイッチを切った。
「……エンジン停止。タッチダウンだ」
「「「やったぁぁぁぁぁッ!!」」」
船内が爆発的な歓声に包まれた。
セシリアとテオは抱き合って泣き、ガンドはボルスの背中をバンバン叩いている。
晶も、震える手でシートの肘掛けを握りしめていた。
着いた。
本当に、月に着いたのだ。
◇
「よし、感傷に浸るのは後だ。……総員、船外活動用意!」
晶の号令で、全員がヘルメットを装着する。
テオが酸素供給魔法を付与し、スライムスーツの密閉を確認する。
「外は真空だ。ヘルメットの魔石が光っているか確認しろ」
準備を整え、一行は減圧室へと移動した。
プシューッという音と共に空気が抜かれ、外扉のロックが解除される。
ゆっくりと、ハッチが開いた。
そこには、見たこともない「灰色の世界」と、真っ暗な空に浮かぶ「青い母星」があった。
「行くぞ」
晶を先頭に、タラップを一歩ずつ降りていく。
心臓が高鳴る。
これは歴史的瞬間だ。最初の一歩には、それにふさわしい言葉が必要だ。
(……考えてきたぞ。『これは一人の人間にとっては小さな一歩だが、人類にとっては偉大な飛躍である』。……よし、これでいく)
晶は喉を整え、最後の一段に足をかけた。
そして、その足が月面に触れようとした、まさにその瞬間。
「一番乗りなのだー!!」
ビュンッ!
晶の股下を、白い影がロケットのような勢いでくぐり抜けた。
「は?」
ポチだ。
ポチは晶の頭上を華麗に飛び越えると、そのままドスンと月面に見事な着地を決めた。
「わーい! 着いたのだー!」
そして、真空の月面に向かって高らかに宣言した。
「こちらポチ! 王王亭・月面支店、ただいまオープンなのだ!」
「…………」
晶の足が、空中で止まった。
数万キロの旅路を経て用意した歴史的名言は、ラーメン屋の開店宣言によって跡形もなく上書きされた。
「……まあいい。スポンサー特権だ」
晶は諦めて、静かに月面に降り立った。
ふわっ。
体が軽い。地球の6分の1の重力だ。
だが、ポチの暴走はまだ終わらない。
「くんくん……。これなのだ。絵本で読んだのだ」
ポチが目を輝かせて地面を見つめている。
「月はチーズでできているのだ! この地面全部が、特大の粉チーズなのだ!」
「……おい待て、ポチ」
「いただきまーす! あむっ!」
止める間もなかった。
ポチは躊躇なく月面の砂を両手ですくい、ヘルメットの下から口に入れて――豪快に頬張った。
ジャリッ。
鈍く、無機質な音が響いた。
ポチの動きが凍りつく。
「……? ……味がしないのだ。しょっぱくないのだ」
「当たり前だ」
晶は冷静にツッコミを入れた。
「それは『月の砂』だ。ただの岩石の粉末だぞ」
「……」
「ガラス質の微粒子を含んでいるから、口の中を切るぞ。ぺッしなさい」
ポチの目から、大粒の涙が溢れ出した。
「嘘なのだー!! チーズじゃないのだー!! 苦労して来たのにただの砂場なのだー!!」
ポチは月面でのたうち回り、手足をバタバタさせて悔しがった。
そのたびに低重力で体がふわりと浮き上がり、シュールな光景を描き出す。
「……なぁアネキ。」
その様子を見ていたリナが、遠い目で呟いた。
「これ、地上に映ってるんだよな?」
「あぁ。たぶんな。」
「歴史の教科書に載るよな、この映像」
「……ああ。たぶんな。」
「タイトルは『月面着陸と駄々っ子』か? 地上の人たち、今どんな顔で見てんだろうな…」
「……考えるな。考えたら負けだ」
晶はため息をつき、周囲を見渡した。
◇
ガンドは「すげぇ……見たこともない鉱石だらけだ」と興奮し、セシリアは「大気がないのに、濃密な魔力を感じます」と震えている。
そんな中、護衛長のリナが鋭い声を上げた。
「アネキ、あれを見て!」
リナが指差したのは、少し離れた巨大クレーターの縁だった。
そこには、明らかに自然にできたものではない、幾何学的で無機質な構造物が見えていた。
「……おい、あれは」
晶が目を凝らす。
それは巨大な金属の扉のようにも、古代神殿の入り口のようにも見えた。
人工物、あるいは知的生命体の痕跡だ。
「当たりだ。……探すぞ、『月の秘宝』を」
晶のアイスブルーの瞳が光った。
あの中にこそ、求めていた「Fカップへの答え」、古代文明の肉体再構築技術があるに違いない。
「ポチ、泣き止んで立つんだ。……ダンジョン攻略の時間だ」
人類未踏の地、月面。
だがそこには、既に「誰か」がいた痕跡があった。
一行は、砂埃を上げてその遺跡へと向かった。




