第90話:悪臭バスター・タマ!
船内は、打ち上げから丸2日が経過しようとしていた。
ロケットは、順調に母星周回軌道を離れ、月へと続く長い旅路の中にある。
窓の外には満天の星空。
眼下には遠ざかる青い母星。
さぞかし優雅でロマンあふれる船旅……かと思いきや。
「……くっ、臭い」
晶は、眉間にしわを寄せて鼻をつまんだ。
船内の空気は、どんよりと澱んでいた。
無理もない。狭い密室に、汗臭い男たちと、獣人と、女性陣がひしめき合っているのだ。
食事の匂い、汗、そして生理現象に伴う微粒子。
それらが逃げ場のない空間でミックスされ、とんでもないハーモニーを奏でている。
「まるで、騎士団の詰所だな、ここは……」
護衛長のリナが、顔をしかめて手で空気を仰ぐ。
「テオ、換気はどうなっている。循環魔法を強めろ」
「も、もう限界ですぅ! フルパワーで回してますけど、活性炭フィルターじゃ追いつきませんよぉ!」
機関士のテオが涙目で杖を振っているが、10人分の生活臭は、ただの木炭の吸着能力を遥かに超えていた。
「ふっ、甘いな。所詮は炭だ。この人数相手では焼け石に水だ」
晶は白衣を翻し、船内中央のダクトスペースへと歩み寄った。
そこには、以前ガンドに作らせた『プラチナメッシュ』が組み込まれている。
「科学の力で、悪臭を分子レベルで焼き払う。……採用するのは『高温触媒酸化システム』だ」
「なんですかそれ?」
「悪臭の原因物質を高温で加熱し、触媒を通して化学反応させ、無害な二酸化炭素と水に分解する技術だ。ISS、国際宇宙ステーションでも採用されている信頼と実績の脱臭法だぞ」
「アイエス……??」
テオが首をかしげる。
「……さてタマ。出番だ」
晶が、部屋の隅で丸まっていたタマの首根っこを掴んだ。
「なんじゃ! 妾は今、食後の昼寝を……」
「このダクトに顔を突っ込んで、常に微弱な炎を吐き続けろ。温度は300度を維持だ」
「はぁ!? 妾は誇り高き元・火炎竜ぞ!? 空気清浄機のヒーター扱いなど……!」
「やるのか、やらないのか。……今夜の晩飯、お前だけキャットフードでもいいんだぞ」
「……やるのじゃ。ふーっ、ふーっ」
タマが屈辱に震えながら、ダクトに向かって炎を吹き込み始めた。
ボウッ、ボウッ。
空気が熱され、白金触媒を通過していく。
すると、数分もしないうちに劇的な変化が訪れた。
「くんくん……匂いが消えたのだ! 無臭なのだ!」
ポチが鼻をひくひくさせる。
澱んでいた空気が、まるで高原の朝のように澄み渡っている。
「すげぇ……! 男臭さが完全に消え失せたぞ!」
ボルスが驚愕する。
「これで空気は清浄化された。……ただし、少し乾燥するから保湿を忘れるなよ」
晶は満足げに頷いた。タマの恨めしげな視線を無視して。
◇
匂いの問題は解決した。
だが、密室サバイバルの試練はこれで終わりではない。
ズゴォォォォォッ!!
船内に、凄まじい吸引音が響き渡った。
トイレだ。
無重力下で使用するトイレは、汚物が浮遊しないよう強力なバキュームで吸い込む方式を採用している。その音は、まるでジェットエンジンのようだ。
そして、壁は軽量化のために薄い。つまり――。
「嫌ですぅ! こんなの……こんなの無理ですぅ!」
トイレの前で、セシリアが顔を真っ赤にして泣き叫んでいた。
「音が……音が丸聞こえじゃないですかぁ! こんな人前で用を足すなんて、お嫁に行けません!」
「我慢しろセシリア。膀胱が破裂すれば、それこそ嫁入り前の大惨事だぞ」
「嫌ぁぁぁ! 殺してぇ! いっそ殺してぇぇ!」
髪を振り乱し、全力でイヤイヤアピールするセシリア。
元・王立魔導院のエリート研究員としてのプライドは、音を立てながら完全に崩壊した。
晶はため息をついた。
「やれやれ。……テオ、出番だ」
「は、はいっ!」
「空気清浄はお役御免だが、防音は任せる。……セシリアのために『防音障壁』を展開しろ」
テオが杖を振り、トイレの個室を風の結界で包み込む。
「風音遮断……! これで中の音は一切外に漏れません!」
「うぅ……本当ですかぁ……? 信じますよぉ……?」
セシリアはおずおずと個室に入っていった。
その後、彼女が無事に出てこれたかどうかは、テオが顔を真っ赤にして結界維持に集中していた姿から察してほしい。
◇
続いて、お風呂の時間だ。といってもシャワーなどないが。
乾燥した船内。貴重な水を使った蒸しタオルで、体を拭く「清拭」が行われる。
男性陣……ボルス、ガンド、クロウ、エルウィン、テオは上半身裸になり、ガシガシと豪快に体を拭いている。
一方、女性陣は船体後部に張られたカーテンの裏へと移動した。
「失礼するぞ」
晶もタオルを手に、カーテンの裏へと入っていく。
「あ、アキラ様! 背中は私が拭きますぅ!」
「いや、自分でやる。……お前たちは自分のケアをしろ」
カーテンの向こうから、衣擦れの音と、セシリアたちのキャッキャという声が聞こえてくる。
男性陣は「あー、さっぱりした」などと言いながら、あえてカーテンの方を見ないように紳士協定を結んでいた。
その時だった。
カッ……!!
「うおっ!?」
「なんだ!?」
突然、カーテンの隙間から強烈な閃光が漏れ出したのだ。
まるで中で照明弾でも焚いたかのような眩しさだ。
「敵襲か!?」
ボルスが身構える。
直後、カーテンがシャッ!と開かれ、晶が不機嫌そうな顔で出てきた。
「騒ぐな。……ただの『反射』だ」
「は、反射……?」
そこにいたのは、さらしを巻き直した晶だった。
だが、その露出した肩や腕、デコルテラインが、異常なことになっていた。
内側から発光するかのようにツヤツヤと輝き、船内の照明を反射してキラキラと光の粒子を撒き散らしているのだ。
汚れ一つなく、水分を完璧に保った、神の芸術品のような肌。
「……解せぬ」
見てはいけないものを見たかのように、エルフのエルウィンが膝から崩れ落ちた。
彼は自分の腕と、晶のツルツルスベスベの肌を見比べ、絶望的な表情を浮かべた。
「エルフである僕の肌より、キメが細かいだと……!? 人間なのになぜ……!」
「知らん。私に文句を言うな」
晶はため息をついて、自分の席へと戻る。
(アネキ……肌はそんなに綺麗なのに、なんで胸だけはあんなに絶壁なんだ……)
カーテンから出てきたリナが、生温かい目で晶の背中を見つめている。
(視線が痛い……褒められても全然嬉しくないぞ。なぜこの栄養が胸に行かないんだ)
晶は無表情のまま、スベスベすぎる腕を組んだ。
「アキラ、気持ちいいのだ〜! スリスリするのだ〜」
ポチだけが、晶のツルツルお腹に頬ずりして至福の表情を浮かべていた。
◇
そして夜。
無重力空間での就寝は、寝袋を壁や天井にマジックテープで固定して眠る「ミノムシスタイル」だ。
「……寝にくい」
晶は目を閉じたが、浮遊感でなかなか寝付けない。
すると。
ふわ〜り。
固定ベルトを外してしまったのか、寝ぼけたタマが空中を漂ってきた。そして、そのまま吸い込まれるように晶の顔面へと着地した。
「むぐっ!?」
「うにゃ……あったかいのじゃ……」
(熱い……! 触媒酸化の仕事熱が残ってるじゃないか……!)
顔面を高性能カイロで温められる悪夢にうなされながら、晶はタマを引き剥がした。
眠れない晶は、寝袋から抜け出し、小窓へと向かった。
そこには、見張りをしていたボルスがいた。
「よう、姐さん。眠れねぇか」
「ああ。……枕が変わるとダメな質でな」
「へっ、繊細だな」
二人は、窓の外を見た。
漆黒の宇宙の先に、圧倒的な存在感を放つ巨大な天体が迫っている。
月だ。
「デカいな……。もう少しだ」
ボルスが呟く。
「俺は、あそこで一番高い山に旗を立ててぇ。俺たちがここまで来た証にな」
「そうだな」
晶は頷いた。
晶の目的はFカップになることだが、それを口にするとロマンが台無しになるので黙っておく。
「あの大地に、私たちの足跡を刻むんだ。……人類の可能性を示すためにな」
◇
そうして、打ち上げから4日目の朝。
窓いっぱいに、クレーターでボコボコの「灰色の大地」が広がっていた。
ついに、到着したのだ。
ここからは母星からの遠隔操作、フローラとの連絡もラグが大きくなる。晶たちの独自判断が必要な領域だ。
「匂いも消えた。肌も拭いた。トイレも済ませた。……準備は万端だな?」
晶が振り返る。
メンバーの顔つきは、サバイバル生活の疲れを見せつつも、使命感に満ちていた。
「「「イエッサー!!」」」
「遊びは終わりだ。……総員、着陸態勢をとれ!」
全員が再びスライムスーツのベルトを締め、シートに固定される。
「バベル一号、月へ降りるぞ!」
晶の号令と共に、ロケットは逆噴射を開始した。
いよいよ、運命の月面着陸が始まる。




