第81話:人類史上最低なプロジェクト
大陸中から客が押し寄せる伝説のラーメン店『王王亭』。
その裏手にあるVIPルーム兼円卓会議室には、今、世界を動かす重鎮たちが顔を揃えていた。
集められているのは、この大陸を実質的に牛耳る5人の男たち――『オーナー連合』である。
ドワーフの技術担当、ガンド。
獣人の食材担当、ヴォルフ。
エルフの調味料担当、エルウィン。
帝国の警備担当、カイザル。
そして、芸術国の広報担当、ルシアン。
各国の次期王たちが、ラーメン屋のロゴ入りエプロン姿のまま、これほどまでに真剣な表情で卓を囲むなど、開店以来初めての事態であった。
「……おい。緊急招集とは穏やかじゃねぇな。やはり、昨夜の話か?」
沈黙を破ったのは、マカバリ帝国の第一皇子カイザルだ。彼は太い腕を組み、鋭い眼光を巡らせた。
「ああ。間違いないだろう。師匠が宴席の最後、酔いに任せてボソリと漏らした、あの一言だ」
ドワーフのガンドが、無骨な手で油の染みた顎髭をさする。
「『月へ行く』……。あれは、酔っ払いの戯言には聞こえなかった。技術屋の勘だが、師匠の目は本気だったぜ。新しい発明を前のめりで語る時の、あのイッちゃってる目だ」
「うむ。姉御の瞳は、極上の獲物を前にした肉食獣のそれだったぞ」
獣人のヴォルフが鼻を鳴らし、武者震いするように拳を握る。
彼らは昨夜の晶の言葉を聞き逃してはいなかった。だが、その真意を測りかねていたのだ。
ガチャリ。
重厚なドアが開き、晶が入室した。
かつてない気迫。
白衣の裾を翻し、カツカツと足音を響かせて歩くその姿には、世界の命運を背負う者のような悲壮な覚悟が漂っていた。
その背後には、テオによって黒板が運び込まれている。
晶は無言のままチョークを手に取った。
カッカッカッ……!
静まり返った部屋に、チョークの硬質な音が響く。
描かれたのは、一つの巨大な円(母星)と、遥か上空に浮かぶ小さな円(月)。そして、地上から天へと伸びる一本の力強い矢印だった。
晶は振り返り、アイスブルーの瞳で男たちを見回した。
「昨夜の言葉は酔狂ではない。……私は本気で『月』へ行く」
静寂。
5人の王子たちが、ゴクリと喉を鳴らした。
晶は黒板の「地上の円」をバンと叩いた。
「計算は終わった。……地上の理、すなわち『重力』という鎖に縛られている限り、私の『理想』は達成できないことが証明されたのだ」
晶が言っている『理想』とは、「Fカップへの成長」のことである。
重力が胸の脂肪を下に引っ張り、隆起しようとする細胞の活動を阻害しているのだという、ガリレオもニュートンも裸足で逃げ出すようなトンデモ理論だ。
「ならば、どうするか。……環境そのものを変えるしかない。天にある『神の領域』へ踏み込み、私自身を強制的に進化させる」
晶の瞳がギラリと光る。
その言葉は、「宇宙に行って無重力なら胸が浮くはずだ」という、ただの個人的な願望と現実逃避でしかない。
しかし。
事情を知らない、彼女を崇拝する王子たちの脳内フィルターを通すと、その言葉は全く別の意味を持って響いた。
ガバンッ!
ガンドが椅子を蹴って立ち上がった。
「月……! そうか、そういうことか! 未知の希少金属と、真空環境を利用した結晶生成! 師匠は、地上の技術レベルを一気に数百年分引き上げようとしているのか! くぅぅッ、燃えるぜ! 俺の旋盤が唸りを上げる!」
エルウィンが感涙にむせび、ハンカチで目頭を押さえる。
「なんという高潔な精神……。月の魔力源、かの地は精霊の故郷とも言われています。世界の理を書き換えるほどの根源的な力を求め、自ら天へ昇られるとは……。なんと崇高な探究心! 森の賢者として、全力で支援いたします!」
獣人のヴォルフが、舌なめずりをして身を乗り出した。
「月には『月ウサギ』がいるって伝説があるよな? まさか姉御、地上には存在しない『究極の食材』を狩りに行くつもりか!? あるいは、宇宙最強の猛獣とのデスマッチか!? そいつは血が騒ぐぜ! 俺の筋肉も連れて行ってくれ! 月の餅つきウサギを鍋にしてやる!」
カイザルが、凶悪な笑みを浮かべて拳を鳴らす。
「ククク……。誰も到達したことのない高み、か。確かに『天』を制する者が地上を制する。あそこから魔法を撃ち下ろせば、世界は帝国の掌中にあるも同然。姐さんは、この星そのものを掌握する気か。……面白い、その覇道、帝国軍が乗ったぜ!」
そして最後に、ルシアンが立ち上がり、恍惚とした表情で天を仰いだ。
「あぁ……やはりそうだったのか。月への帰還……。君のその浮世離れした美しさと知性、常々おかしいと思っていたんだ」
ルシアンは晶の手を取り、うやうやしく跪いた。その瞳は、信仰に近い熱を帯びている。
「君は……地上に迷い落ちた『月の女神』だったんだね! ついに故郷へ帰る時が来たというのか……! なんてドラマチックなんだ!」
(……まあ、そう思わせておいた方が都合がいいか)
晶は内心で舌を出しつつ、ニコリと笑った。
彼らの勘違いは、実に都合の良い燃料だ。金も、技術も、労働力も、彼らを煽れば湯水のように湧いてくる。
晶のその笑みを、勝手に「女神の承認」と受け取った男たちのテンションは、一気に臨界点を突破した。
◇
それぞれの妄想が爆発し、会議室はカオスな熱気に包まれた。
そして、その熱気はやがて衝突を生む。
「待てよ! 月は『資源』だ! まずは採掘権を確定させるのが先決だろ!」
「野蛮な! あそこは精霊の聖域だぞ、ドワーフの汚いツルハシで掘り返すなど許されん!」
「腹が減っては戦ができん! まずはウサギ狩りだ!」
「軍事拠点の建設が最優先だ!」
「ノンノン、まずは女神のための神殿を建てるべきだよ」
ガンドとエルウィンが睨み合い、ヴォルフが机を叩き、カイザルが地図を広げ、ルシアンが薔薇を撒く。
目的の不一致による内乱勃発の予感。
だが、その喧騒の中心で、晶は彼らの言葉など一ミリも聞いていなかった。
彼女は自分の胸元に手を当て、ただひたすらに、己の肉体と脂肪を相手に対話していたのだ。
(……そうだ。私の計算に間違いはない。このAカップは、遺伝子の敗北ではない。重力の弾圧なのだ)
晶の脳裏に、かつて読んだ解剖学の図版が浮かぶ。
クーパー靭帯の張力。脂肪細胞の流動性。
そして、地球重力1Gという絶対的な枷。
(無重力空間に行けば、下垂する脂肪は解放され、全方位へと膨張する。さらに、月面の6分の1重力下でのトレーニングを行えば、大胸筋への負荷も変わり、理想的なバストアップが可能になるはずだ……!)
もっともらしいことを言っているようだが、けっきょく、ただのコンプレックスの暴走だった。
だが、その狂気じみた執念こそが、晶を突き動かす原動力。
彼女にとって、王国の繁栄も、技術革新も、Fカップという至高の果実の前では「おまけ」に過ぎない。
(待ってろよ、Fカップ。……地上の重力が邪魔なら、宇宙へ逃げればいい。物理法則ごと書き換えてやる)
晶は黒板に叩きつけた拳を、ギリギリと強く握りしめた。
そして、喧嘩を始めた王子たちを一喝した。
「ええい、静まれ! 目的などどうでもいい! 手段は一つだ!」
晶の声に、全員がピタリと止まる。
「協力しろ、お前たち。……作戦名は『バベル計画』。神の領域へ到達するための塔――すなわち、ロケットを建造する!」
「「「イエス・マム!! 我が命に代えても!!」」」
ドッ! と部屋の温度が上がった。
熱狂する男たち。
彼らの目には、人類史上最大のプロジェクトに挑む使命感と、晶への絶対的な忠誠心が燃え盛っていた。
その様子を、部屋の隅の観葉植物の陰から見ていたフローラが、胸の前で手を組み、涙を流して震えていた。
「あぁ……。アキラ様はついに、地上の狭き檻から解き放たれようとしています……」
彼女は懐から分厚い革張りのノートを取り出し、猛烈な勢いで筆を走らせる。
『聖典・第7章『飛翔』、第1節。
――地上の王たちは、己の欲望のために争い合った。資源を、力を、食を求め、互いに牙を剥いた。
しかし、女神アキラは静かに言われた。「静まれ」と。
その一言は雷鳴の如く彼らを打ち、争う愚かさを悟らせた。
女神は天を指差し、彼らに新たな道を示された。「共にバベルを築け」と。
それは、種族を超え、国境を超え、全ての民が一つになって天を目指すという、大いなる調和の福音であった……』
彼女の脳内フィルターによって、晶の「うるさい、黙って働け」という命令が、世界平和を導く聖女の言葉へと美しく改竄されていく。
この場にいる全員が、晶というカリスマに酔いしれ、歴史的瞬間に立ち会っているという興奮に包まれていた。
だが、真実は一つ。
人類の叡智と、男たちの純情と、莫大な国家予算を、「豊胸」というたった一点のためだけに浪費する。
それは間違いなく、人類史上もっともくだらなく、もっとも壮大な、最低のプロジェクトだった。
こうして、勘違いと欲望を燃料にした、理系作家の次なる舞台――宇宙への挑戦が、今始まる。




