第75話:遭難? いいえ、隠密行動です
視界ゼロ。
天地の境目すら曖昧な、白一色の虚無。
獣人国『ホワイト・ファング』の北方に聳える霊峰『万年氷河』の中腹は、人間を拒絶する猛吹雪に包まれていた。
「……鼻も利かねぇ! この吹雪じゃ遭難確実だぞ!」
案内役の第三王子ヴォルフが、ゴーグル越しに絶叫する。
獣人の鋭敏な嗅覚も、この轟音と冷気の中では機能しない。右も左もわからないホワイトアウトの中、一行は白い地獄を彷徨っていた。
だが、先頭を歩く結城 晶の足取りに迷いはなかった。
「騒ぐな。魔導GPSの座標は正常だ。……ルート計算通りに進んでいる」
晶は手元の端末を見ながら、淡々と雪を踏みしめる。
彼女の目的はただ一つ。ラーメンスープの命となる、不純物ゼロの『超軟水』を手に入れること。
そのためなら、雪山登山など散歩に等しい。
「アキラ、お耳が凍りそうなのだ……」
ポチが晶の背中に背負われたリュックの中から顔を出し、雪まみれになって震えている。
「我慢しろ。……もう少しで、温かくて甘いものが飲めるぞ」
晶がポチの頭を撫でようとした、その時だった。
ヒュッ。
風切り音がした。
それは吹雪の音ではない。明確な殺意を纏った何かが、空間を裂く音だった。
「――社長、目を閉じていてください」
晶が反応するよりも早く、静かな声が鼓膜を揺らした。
黒い影が、晶の前に躍り出る。
元暗殺者、クロウだ。
カィィィンッ!!
硬質な金属音が響き、雪の中に火花が散る。
クロウが双剣で弾き飛ばしたのは、白い塗装が施された投げナイフだった。
「……誰だ!」
ヴォルフが身構える。
吹雪の向こうから、白い毛皮を纏った複数の影が音もなく現れた。
風景に完全に溶け込む迷彩。彼らは、この国の裏社会に生きる暗殺部隊だった。
「姫様…、貴女に帰還されては困る方々がいるのです。……ここで眠っていただきます」
リーダー格の男が、無機質な声で告げる。
王位継承権を持つポチの帰還を良しとしない、反対派貴族の差し金だ。
「貴様ら……妹を狙うか!」
ヴォルフが激昂して飛び出そうとするが、クロウが片手でそれを制した。
「王子、下がっていてください。……雪を汚すと、社長に怒られますから」
クロウは双剣を逆手に持ち、深く沈み込んだ。
その瞬間、彼の気配が消えた。
姿は見えている。だが、存在感だけが霧散したかのように、雪景色に溶け込んだのだ。
「『音無き氷雪』」
ザッ……!
クロウが雪を蹴った。
だが、音はしない。足跡すら残さない。
まるで幽霊のように、あるいは雪女の吐息のように、彼は吹雪の中を滑走した。
「なっ……速い!?」
暗殺者たちが反応する間もなく、クロウは敵の懐に潜り込んでいた。
トンッ。
剣の柄で、敵の鳩尾を正確に突く。
「ぐふっ……!?」
一人目が崩れ落ちる。
同時に、背後から襲いかかった二人の剣戟を、最小限の動きで受け流し、手首を返して関節を極める。
バキッ、ドサッ。
流れるような舞踏。
殺さない。血も流さない。
だが、確実に意識を刈り取る神業。
それは戦闘というより、一方的な「排除作業」だった。
「ば、馬鹿な……! 我らの動きが見えているのか!?」
残った暗殺者たちが狼狽する。
クロウは双剣についた雪を払い、冷徹な瞳で彼らを見据えた。
「雪山での隠密行動なら、俺の方が先輩だ。……お嬢の毛一本触れさせん」
ゾクリ。
絶対零度の殺気が、吹雪よりも冷たく敵の心臓を凍らせた。
戦意喪失。暗殺者たちは這うようにして雪の中に消えていった。
「す、すげぇ……」
ヴォルフが呆然と呟く。
「あの優男……これほどの手練れだったのか!? 獣人の嗅覚ですら捉えきれんかったぞ……!」
「当然だ。彼は私の護衛だからな」
晶は何事もなかったかのように歩き出した。
「行くぞ。……邪魔者は消えた」
◇
さらに登ること数時間。
吹雪が止み、目の前に青白く輝く巨大な壁が現れた。
万年氷河の最深部だ。
数万年の時を経て圧縮された氷は、神秘的な蒼色を湛えている。
「ここだ……。この深層氷こそが、究極の軟水になる」
晶がピッケルを取り出そうとした、その時。
ズシィィィン……!
地響きと共に、氷の壁の前におびただしい数の影が現れた。
身長3メートルを超える、白い剛毛に覆われた巨体。
氷河の守護者、『雪男』、イエティの群れだ。
「ウオォォォォォッ!!」
ボスと思われる最大個体が、ドラミングをして威嚇する。
彼らにとって氷河は聖域。侵入者は敵だ。
「まずいぞ! 奴らは言葉が通じねぇ! 完全に殺る気だ!」
ヴォルフが構えるが、数百頭のイエティ相手では分が悪すぎる。
だが、晶はピッケルを置き、代わりにリュックから魔法瓶を取り出した。
「言葉は通じなくても、『味』は通じるはずだ」
晶はコップを取り出し、ポットの中身を注いだ。
とぷ、とぷ、とぷ……。
立ち上る湯気。
そして、周囲に広がる甘く濃厚な香り。
カカオとミルク、そして砂糖が織りなす、魔性の芳香。
「……?」
ボス・イエティの鼻がピクピクと動いた。
怒り狂っていた表情が、一瞬で「?」に変わる。
晶は無言で、湯気の立つコップを差し出した。
中には、熱でとろけたマシュマロが浮かんでいる。『特濃ホット・チョコレート』だ。
ボスがおそるおそる近づき、巨大な手で小さなコップを受け取る。
そして、一口飲んだ。
……。
…………。
「ウ、ウオォォォン……ッ!!♡」
ボス・イエティが、頬を染めて天を仰いだ。
甘い! 温かい! 美味い!
極寒の地で生きる彼らにとって、温かい飲み物というだけでもご馳走なのに、そこにカカオの糖分と脂肪分が加わったのだ。脳髄がとろけるほどの衝撃だったに違いない。
「ウオッ! ウオッ!(もっとくれ!)」
他のイエティたちも殺到する。
晶はニヤリと笑い、荷物持ちのボルスに合図した。
「商談成立だ。……全員に振る舞ってやれ」
その日、伝説の雪男たちは、ホットチョコレートの甘い罠に屈し、晶を「甘味の精霊」として崇めることとなった。
◇
帰り道。
ボルスの背中には、イエティたちが自ら切り出してくれた、最高純度の深層氷のブロックが山積みされていた。
襲撃も、猛獣の脅威も、すべて「食」の力でねじ伏せた晶たち。
「……ねぇ、アキラ」
ポチが、いつになく真剣な目で言った。
「ボク、決めたのだ」
「何をだ?」
「ボクは王様にはならないのだ。やっぱり、アキラのラーメン店の看板娘でいたいのだ!」
先ほどの襲撃事件で、ポチなりに自分の立場を理解したのだろう。
王位争いは面倒だ。それよりも、アキラと一緒に美味しいものを作って食べる方が、ずっと幸せだ。
「……そうか。店をやるつもりなどないが、万が一そんな時が来たら、しっかり働いてもらうぞ」
晶は苦笑して答え、ポチの頭をワシワシと撫でた。
ヴォルフも、頼もしげに妹を見つめていた。
「ああ。妹は俺が守る。そして俺が、父上のような立派な王になってみせるさ」
ヴォルフは、自分に言い聞かせるように拳を握りしめた。
◇
城に戻った晶は、持ち帰った氷を溶かし、グラスに注いだ。
クリスタルのように透明な水。
一口含む。
「…………」
晶が目を見開く。
軽い。驚くほど柔らかい。
口の中で抵抗なく広がり、喉を滑り落ちていく。
これなら、繊細な魚介出汁の旨味を1ミリも阻害することなく、極限まで引き出せるはずだ。
「よし」
晶はグラスを置き、テーブルに並んだ全ての材料を見渡した。
ドワーフの麺と鍋。
エルフの醤油と野菜。
港町の魚介出汁と塩。
そして、獣人国の豚骨、鶏ガラ、水。
「全てのピースは揃った」
晶の瞳に、静かな炎が宿る。
長い旅の終着点。
いよいよ、世界を変える一杯、「究極のラーメン」を作る時が来た。
「行くぞ。……まずは試作だ。この国に、温泉とラーメンの楽園を作る」
その言葉は、単なる料理の範疇を超えた、国家規模の大プロジェクト――王都を巻き込んだ『リゾート開発計画』の幕開けだった。
第2章・全69話まで完結保証しています。キリの良いところまでキッチリ読み切れます!
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第3章執筆のモチベーションに使わせていただきます。




