第73話:指一本撃破でナゼ求婚!?
吐く息が、白い霧となって虚空に消える。
獣人国『ホワイト・ファング』の王城中庭。分厚い雪に覆われたその場所は、本来ならば兵士たちの熱気と掛け声が響く練兵場だ。
だが今、そこには張り詰めた静寂と、肌を刺すような殺気だけが満ちていた。
「……寒い」
晶は、白衣の襟を合わせ、不機嫌そうに眉を寄せた。
気温はマイナス二〇度。じっとしているだけで体温が奪われていく極寒の世界。
だが、対峙する男――第三王子ヴォルフは、そんな寒さなど存在しないかのように振る舞っていた。
上半身は裸。鍛え上げられた鋼のような肉体からは、陽炎のように湯気が立ち昇っている。
「フッ、どうした人間。震えているのか?」
ヴォルフが鋭い犬歯を剥き出しにして嗤う。
「この程度の寒さで縮こまるとは、やはり貧弱な種族だ。……俺の爪が届く前に凍死するんじゃないか?」
「御託はいい。さっさと始めろ」
晶はポケットに手を突っ込んだまま、冷ややかな視線を返した。
「こっちは忙しいんだ。お前の相手をしている暇があったら、スープの出汁について考察したい」
この奇妙な決闘を見守る観衆は、二箇所に分かれていた。
一方は、城の二階バルコニー。
「うーむ……ヴォルフの奴、また血がたぎっておるな」
「お兄ちゃん、アキラをいじめたらメッなのだ!」
獣王ガオウとポチは、晶が施工したばかりの床暖房の効いた室内から、ホットミルクを片手に「ぬくぬく」と高みの見物を決め込んでいる。
硝子窓越しに見る光景は、さぞかし他人事のように快適だろう。
もう一方は、中庭の隅で控える『黒薔薇騎士団』の面々だ。
「社長、手加減してやってくださいよ。相手は一応、この国の王子様なんですから」
「王子を殺さないでくださいよー。外交問題になりますから」
彼らが心配しているのは、主の敗北ではなく、相手の命だった。
「舐めるなよ、人間風情がッ!」
ヴォルフの堪忍袋の緒が切れた。
ドンッ!
爆発音と共に、雪煙が舞い上がる。
獣人特有の瞬発力。初速からトップスピードに乗ったヴォルフの姿が、晶の網膜に黒い残像を焼き付ける。
「『剛狼拳』!!」
ごうッ!
空気を圧縮して放たれた拳圧が、晶の頬を撫でる。
直撃すれば岩盤をも砕く必殺の一撃。だが、晶の瞳には、その軌道がスローモーションのように映っていた。
(……大振りすぎる。筋肉の収縮、重心移動、すべてが教科書通りの『力任せ』だ)
晶は最小限の動きで上体を逸らした。
ブンッ!!
拳が空を切り、衝撃波が背後の雪山を吹き飛ばす。
「チッ、逃げ足だけは速いか!」
ヴォルフが追撃に転じる。
鋭い爪による連撃、遠心力を乗せた回し蹴り。雪を巻き上げながら繰り出される猛攻は、まさに吹雪のような勢いだ。
しかし、当たらない。
晶は柳のようにゆらりと揺れ、紙一重ですべてを躱していく。
ハイ・オークの突進、クラーケンの触手、それらの死線を潜り抜けてきた晶にとって、感情に任せた単調な物理攻撃を見切ることなど、造作もないことだった。
「ちょこまかと……! 正々堂々とぶつかり合え!」
業を煮やしたヴォルフが吠える。
晶はバックステップで距離を取った。
「正々堂々、ねぇ。……いいだろう。ならばリクエストにお答えして、正面から『理屈』でねじ伏せてやる」
晶は白衣の懐から、琥珀色の液体が入った小瓶を取り出した。
「テオ、準備はいいな?」
「いつでもどうぞ、社長! 座標固定、冷却術式スタンバイ!」
後方で控えていたテオが、杖を構えて詠唱を開始する。
「展開せよ。……『極小摩擦領域』」
晶が小瓶を放り投げた。
パリンッ!
ヴォルフの足元で瓶が砕け、粘度の高い液体が飛散する。
同時に、テオの冷却魔法が発動した。
キィィィィン……!
大気が凍てつく音。ヴォルフの周囲半径五メートルの雪面が、一瞬にして鏡のように滑らかな『超氷原』へと変貌した。
さらに、その表面を覆うのは、晶がスライムの粘液を化学処理して生成した特製ローション――『超潤滑液』の被膜だ。
「なんだ、ただ地面を凍らせただけか! 獣人の爪があれば、氷の上でも走れ――」
ヴォルフは鼻で笑い、勝利を確信して晶へ向けて踏み込んだ。
その、瞬間だった。
ツルッ。
「――ぬ?」
ヴォルフの世界が、唐突に裏返った。
踏み込んだはずの右足が、どこまでも滑っていく。
慌てて踏ん張ろうとした左足も、まるで氷の上を滑る油のように、虚空を掻くばかりで地面を捉えない。
「うおっ!? な、なんだ!? 立てん!?」
ドターンッ!!
ヴォルフは盛大に尻餅をついた。
だが、地獄はそこからだった。
起き上がろうとして手をつけば、その手が滑る。膝をつこうとすれば、膝が滑る。
ズザザァァァ……クルクルクル……!
四肢をもがけばもがくほど、慣性の法則に従って体は勝手な方向へと回転し、流されていく。
摩擦という「ブレーキ」を失った物体は、止まることすら許されないのだ。
「くそっ! なんだこれは! 魔法か! 呪いか!」
パニックに陥り、氷上で独りブレイクダンスを踊り続ける王子。
その滑稽な姿を冷ややかに見下ろしながら、晶はカツ、カツ、と氷の上を歩いて近づいた。
彼女のブーツの底には、ミスリル製のスパイクが装着されている。
「呪いじゃない。ただの物理法則だ」
晶は滑り続けるヴォルフの眼前に立ち、淡々と告げた。
「お前の足元の摩擦係数は、限りなくゼロに近い。……いいか、王子。お前が自慢する『筋力』や『速さ』は、地面との摩擦があって初めて成立するものだ」
晶は人差し指を立てた。
「作用・反作用の法則。地面を蹴る力が逃げてしまえば、お前は生まれたての小鹿より弱い」
「ぐぬぬ……! 卑怯だぞ! こんなの戦いじゃない!」
「オマエはバカか?戦場では立っている方が正義だろ!」
晶は屈み込み、もがき続けるヴォルフの額に狙いを定めた。
中指を親指にかけ、力を溜める。
デコピンの構え。
「実験終了」
パチンッ!
乾いた音が響いた。
たったそれだけの、子供の遊びのような衝撃。
だが、摩擦ゼロの世界において、その運動エネルギーは減衰することなく100%ヴォルフの体へと伝達される。
ツルルルルルッ――ドゴォォォォンッ!!
ヴォルフの巨体は、カーリングのストーンのように猛スピードで滑走し、訓練場の石壁に後頭部から激突した。
「あべしっ……!?」
白目を剥き、雪崩の中に埋もれていく王子。
完全なる沈黙が、中庭を支配した。
◇
数分後。
気絶から目覚めたヴォルフは、雪の上に大の字になったまま、ぼんやりと空を見上げていた。
「……強い」
うわ言のように呟く。
脳裏に焼き付いているのは、自分を指一本で吹き飛ばした、あの冷徹な眼差し。
「俺の剛拳を躱し、理屈のわからない術で俺を翻弄した……。あんな女、見たことがない……!」
獣人の社会には、太古より続くシンプルな掟がある。
――強い者は正しい。
――強いメスは、最強の遺伝子を残す。
晶の科学的勝利は、脳筋王子のフィルターを通すことで「圧倒的強者による蹂躙」へと変換され、本能の奥底にあるスイッチを激しく連打してしまったらしい。
ガバッ!
ヴォルフが跳ね起き、晶の足元に猛然とスライディング土下座を決めた。
「頼む! 俺の番になってくれ!」
「……は?」
帰り支度を始めていた晶が、心底嫌そうに振り返る。
「お前のような強いメスこそ、俺の妻に相応しい! 俺と結婚して、世界最強の子供を産んでくれ! 俺の遺伝子とお前の強さが合わされば、神をも殺せる子供ができるはずだ!」
ヴォルフの瞳からは、先ほどまでの敵意は消え失せ、代わりに狂気じみた熱烈なハートマークが浮かんでいる。
周りの騎士団員たちが「あーあ、またか」「社長の無自覚たらしスキル、種族を超えたか……」と一斉に顔を覆った。
「断る」
晶は即答した。コンマ一秒の迷いもなかった。
「私はラーメンの具材を探しに来ただけだ。結婚に興味はないし、そもそも種族が違う」
「種族など些末な問題だ! 愛と筋肉があれば乗り越えられる! 俺は王族だぞ! 身体も丈夫だ! 夜の方も自信が――」
「黙れ。暑苦しい」
晶は氷のような視線で突き放し、踵を返した。
だが、一度火がついた獣の本能は、そう簡単には消えない。
「ま、待て! 振られて諦めるような軟弱な男ではない!」
ヴォルフが立ち上がり、晶の背中に向かって高らかに宣言した。
「ならば……俺が貴女に相応しい男になるまでだ! 俺を弟子にしてくれ! 貴女の強さの秘密を知りたい! そしていつか、貴女を組み敷いてみせる!」
(……なんか変な舎弟が増えたな)
晶はこめかみを押さえた。
求婚者のストーカー化は、彼女にとって頭痛の種でしかない。
だが、冷静に計算すれば、王族が手駒になるメリットは計り知れない。この国の施設、資源、そして労働力を自由に使えるパスポートが手に入ったようなものだ。
(まあいい。使えるものは何でも使うのが私の流儀だ)
「……勝手にしろ。ただし、私の邪魔はするなよ。それと、私を『師匠』と呼ぶな」
「御意! 姉御!」
「姉御もやめてほしいんだがなぁ……」
こうして、脳筋王子ヴォルフが荷物持ち兼パシリとして加わった。
邪魔者は消え、強力な労働力が手に入った。
これで、約束の品――スープのベースとなる「ガラ」の確保に全力を注げる。
「行くぞ。……安定した豚骨と鶏ガラを手に入れるために、この極寒の地に『近代的畜産プラント』を建設する」
晶は城の裏手に広がる荒涼とした雪原を指差した。
その瞳には、すでに黄金色に輝くスープの幻影が映っていた。
第2章・全69話まで完結保証しています。キリの良いところまでキッチリ読み切れます!
続きが気になる、面白かったと思っていただけたら、
ブックマークや、下の【☆☆☆☆☆】(評価)で応援していただけると嬉しいです!
第3章執筆のモチベーションに使わせていただきます。




