第60話 発酵、それは、生命の錬金術
大樹海『エメラルド・フォレスト』に、久方ぶりの穏やかな風が吹き抜けていた。
結城 晶による「強制点滴手術」によって蘇った世界樹は、今や森全体に生命力を供給し、枯れ果てていた大地を緑の楽園へと変貌させていた。
その世界樹の根元近くに広がる群生地で、奇妙な収穫作業が行われていた。
「総員、抜いて抜いて抜きまくれ! 根についた土は貴重な根粒菌の宝庫だ、丁寧に落とせよ!」
「イエッサー!」
晶の指揮の下、『黒薔薇騎士団』の面々が雑草――に見える植物を次々と引き抜いていく。
それは、世界樹の守護によって生き残っていた『野生種の大豆』と『古代小麦』だった。
「ふふふ……大漁だ」
晶は山積みになった枝付きの大豆を見上げ、満足げに頷いた。
まだ完全に熟していない、青々とした鞘。
醤油にするには乾燥大豆が必要だが、今のこの状態もまた、極上の食材である。
「よし。作業の合間に、まずは味見だ」
晶は巨大な鍋に湯を沸かし、大量の岩塩を投入した。
そこに、枝ごと洗った大豆を豪快に放り込む。
数分後。茹で上がった豆をザルにあけ、さらに追い塩を振る。
熱気と共に立ち上る、独特の青臭さと甘い香り。
夏の風物詩、『枝豆』の完成だ。
「さあ食え。採れたてを茹でて食う、これこそ生産者の特権だ」
「わーい! お豆さんなのだー!」
誰よりも早く飛びついたのは、やはりポチだった。
彼女は熱々の枝豆を山盛り両手に抱え、器用に前歯で鞘をしごいた。
プリッ。
中の豆が飛び出し、ポチの口の中へと吸い込まれる。
「はふっ、はふっ……ん~~~~っ!」
ポチが目を細め、尻尾をパタパタと振る。
「甘いのだ! お芋みたいにホクホクで、でもお野菜の味がして、塩味がきいてて……止まらないのだー!」
プリッ、プリッ、プリッ。
ポチの手が止まらない。
塩気の効いた豆の旨味が、噛むほどに口いっぱいに広がる。
それは単純だが、暴力的なまでに後を引く味だった。
「……これが、あの雑草の実ですか?」
エルフの第2王子、エルウィンがおそるおそる手を伸ばす。
高貴なエルフにとって、森の草を食べるなど野蛮な行為に思えたのだろう。だが、ポチのあまりの食いっぷりに釣られ、一粒口に運んだ。
「……ッ!?」
エルウィンの目が丸くなった。
「う、美味い……! なんだこの濃厚な風味は! 果物のような甘みと、大地の滋養が凝縮されている!」
「だろうな。世界樹の魔力を吸って育った特級品だ。ビール……いや、エルフの果実酒にも合うぞ」
晶も一房つまみ、豆を口に放り込んだ。
美味い。
だが、晶の目的はここではない。
枝豆はあくまで前菜。本番は、この豆を「黒い液体」へと変成させることだ。
◇
腹ごしらえを終えた晶は、一転して険しい顔つきになった。
手には魔導ルーペを持ち、地面を這いつくばって何かを探し始めたのだ。
「いないか……。私の可愛いコウジちゃん……」
「ア、アキラ殿? 何をされているので?」
地面に顔をこすりつける英雄の姿に、エルウィンが引き気味に尋ねる。
「菌だ。……醤油と味噌を作るには、ただの豆じゃダメだ。スターターとなる『種麹』が必要なんだ」
麹菌。
東洋の食文化を支える、偉大なるカビの一種。
それがいなければ、どんな上質な大豆も、ただ腐っていくだけだ。
「カビ……ですか? そんな不浄なものを探してどうするのです」
「不浄? バカを言え。彼らは人間よりも遥かに優秀な化学者だぞ」
晶は鼻を鳴らし、世界樹の幹に空いた空洞へと顔を突っ込んだ。
湿気がこもり、薄暗い場所。
そこに、古くなって朽ちかけた古代小麦の穂が落ちていた。
その表面に、うっすらと「エメラルド色の粉」のようなものが吹いている。
「――いたッ!!」
晶が叫んだ。
ルーペで拡大する。
間違いない。美しい胞子嚢を広げた、元気な麹菌だ。しかも、世界樹の影響か、色が宝石のように鮮やかだ。
「ビューティフル……! これは世界樹の変異種、『ハイ・エルフ麹』だ!」
晶は震える手で、そのカビのついた穂を採取し、滅菌したシャーレに収めた。
エルウィンは、晶がまるで宝石を見つけたかのようにカビを見つめる姿に、背筋が寒くなるのを感じた。
◇
素材と菌は揃った。次は環境だ。
晶は森外れにある空き家のログハウスを接収し、即席の『麹室』へと改造した。
「ボルス、壁の隙間を埋めろ! 断熱だ! 外気を1ミリも入れるな!」
「了解!」
「テオ、お前は空調係だ! 室温30度、湿度60%をキープしろ! 変動許容範囲はプラスマイナス0.5度だ!」
「えぇっ!? この広い部屋でそれを維持するんですか!? 寝れないじゃないですか!」
テオが悲鳴を上げるが、晶は聞く耳を持たない。
麹作りは最初の三日間が勝負だ。菌が繁殖しやすい常夏の環境を、人工的に作り出さねばならない。
晶は蒸した大豆と、炒って砕いた小麦を混ぜ合わせ、そこに採取した「ハイ・エルフ麹」の胞子を振りかけた。
それを木箱(麹蓋)に広げ、室内の棚に並べていく。
「さあ、育て。私の可愛い家畜たちよ」
◇
三日後。
麹室の中は、異様な光景になっていた。
「うっ……これは……」
入室したエルウィンが、思わず口元を押さえた。
棚に並べられた豆の山。その全てが、びっしりと生えた「緑色の毛」に覆われていたからだ。
フワフワとした菌糸が豆を包み込み、胞子が舞っている。
一般的な感覚で見れば、それは「完全に腐ってカビだらけになった生ゴミ」以外の何物でもなかった。
「アキラ殿……正気ですか? これを……食べるのですか?」
エルウィンの顔色が青ざめる。
潔癖なエルフにとって、生理的嫌悪感を催す光景だ。
「腐敗じゃない。『発酵』だ」
晶は愛おしそうに、緑色になった豆(麹)を手に取った。
パラパラとほぐすと、栗のような、あるいは焼き立てのパンのような、甘く香ばしい香りが漂った。
「見ろ、この胞子の輝きを。彼らは今、豆のデンプンを糖に、タンパク質を旨味に変えている最中だ。……これは腐敗の対極にある、生命の錬金術なんだよ」
「錬金術……。しかし、見た目が……」
エルウィンが後ずさる。
その時だった。
「――臭うぞ! この建物からだ!」
外から、鋭い声が響いた。
ドタドタという足音と共に、武装したエルフの一団が麹室を取り囲む。
彼らは長老派とは違う、若手の精鋭部隊――森の純潔を守る『過激派巡回兵』たちだった。
「な、なんだこの甘ったるい腐臭は……!?」
「人間め! やはり神聖な穀物を腐らせて、毒を作ろうとしているな!」
リーダー格のエルフが、鼻を押さえながら剣を抜く。
独特の「麹香」は、彼らにとっては未知の脅威の臭いだったのだ。
「待て! 早まるな!」
エルウィンが止めに入ろうとするが、彼らは聞かない。
「エルウィン様、騙されてはいけません! 人間は森を腐らせる気です! 今すぐにこの不浄な建物を焼き払わねば!」
「総員、構えッ! 浄化の炎を!」
数十人のエルフが杖を構え、麹室に向けて炎の魔法陣を展開する。
一斉射撃されれば、木造のログハウスなど一瞬で灰になる。中の麹菌も全滅だ。
その瞬間。
「――止まれ」
氷のような声が響いた。
晶だった。
彼女は白衣を翻してドアの前に立ちはだかり、冷徹な瞳でエルフたちを睨みつけた。
「アキラ殿!? 危ない!」
「この中では今、数十億の命が懸命に活動している。……ドアを開けたせいで室温が下がっただろうが」
晶は懐から、数本の試験管――即席の投擲用フラスコを取り出した。
「毒だと? 腐敗だと? ……無知とは罪だな」
「黙れ! その『穢れ』ごと消え失せろ!」
リーダーが号令をかける。
魔法陣が赤く輝き、火球が放たれようとした、その刹那。
「私の『家畜』に、指一本触れさせるなッ!!」
晶がフラスコを放り投げた。
それは炎の魔法ではなく、科学の反撃の狼煙だった。
第2章・全69話まで完結保証しています。キリの良いところまでキッチリ読み切れます!
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