第10話:結界? いいえ、蚊取り線香です
楽しい海鮮BBQが終わり、夜の帳が下りた『静寂の湖』。
満腹になったポチが、焚き火のそばで幸せそうに丸くなっていた、その時だった。
プィィィィィィン……。
鼓膜を逆撫でするような不快な高音が、暗闇の奥底から忍び寄ってきた。
「ん……? なんか耳元で鳴ってるのだ……」
ポチがピクリと耳を動かす。
次の瞬間。
「痛っ!?」
リナが自分の二の腕をパチンと叩いた。
「くそっ、蚊か! 湖の近くだからって、デカすぎだろ!」
リナが見せた掌には、親指ほどの大きさがある巨大な蚊が潰れていた。
だが、それは悪夢の序章に過ぎなかった。
ブゥゥゥゥゥゥン……!!
先ほどとは比べ物にならない、まるで爆撃機の編隊のような重低音が、周囲の闇を一斉に取り囲んだ。
「なっ……囲まれてる!?」
リナが松明を掲げると、そこには鳥肌が立つような光景があった。
闇の中に浮かぶ、無数の赤い複眼。
鋭い針を持った『吸血殺人蚊』の大群が、黒い雲のように密集していたのだ。
「うわぁぁぁ! 気持ち悪いのだ! チクッとするのは嫌いなのだー!」
ポチが悲鳴を上げて晶の白衣の背後に隠れる。
モフモフの毛皮があっても、鼻先や耳の内側は無防備だ。
「ちっ、数が多すぎる! アニキ、フローラを守れ! あたいが追い払う!」
リナが双剣を抜き、群れに向かって振るう。
ブンッ! ブンッ!
鋭い剣閃が空を切るが、蚊たちはフワリと避けるだけだ。
風圧で散っても、すぐにまた集まってくる。
「くそっ、当たんねぇ! 的が小さすぎる!」
剣士にとって、物理攻撃の当たりにくい群体ほど厄介な敵はいない。
蚊の群れは嘲笑うように包囲網を狭め、獲物の生き血を啜ろうと急降下を開始した。
「……鬱陶しい」
その喧騒の中で、結城 晶だけは冷静だった。
いや、むしろ不機嫌だった。
衛生面を気にする彼にとって、病原菌を媒介する害虫は、盗賊以上に駆除すべき対象だ。
「リナ、下がれ。……『結界』を張る」
「結界!? アニキ、防御魔法も使えるのか!?」
「まあ、そんなもんだ」
晶は懐から、「深緑色の物体」を取り出した。
それは奇妙な渦巻き状に成形された、乾燥した固形物だった。
「緑の……渦巻き? 魔法陣の触媒ですか?」
フローラが尋ねる。
「これは『除虫菊』を練り込んだ香だ。昆虫の神経系にのみ作用し、ナトリウムチャネルを持続的に開くことで、強制的に活動を停止させる」
晶は渦巻きの先端に、BBQの残り火で着火した。
アイスブルーの瞳が、大気の流れを見切る。
「……構成式展開。神経麻痺領域」
細く、白い煙が立ち上る。
独特の香りが、夜の湖畔に広がっていく。
現代日本人なら誰もが知る、あの懐かしくも強力な「夏の香り」だ。
「おい、こんな煙で止まるわけ……」
リナが言いかけた時だった。
風に乗った煙が、蚊の群れの前衛に届く。
その瞬間。
ボトボトボトボトッ!!
「え?」
空を飛んでいた蚊たちが、突然糸が切れたように落下し始めた。
一匹や二匹ではない。
煙に触れた先頭集団から順に、数百、数千という蚊が、雨のように地面に墜落していく。
「な、なんだ!? 虫が……勝手に落ちていくぞ!?」
蚊たちは地面でピクピクと痙攣しているが、もう飛び立つ力は残っていない。
除虫菊に含まれる成分は、哺乳類には無害だが、昆虫や両生類にとっては即効性の猛毒だ
煙はドーム状に広がり、晶たちの周囲に不可視の防壁を築いていく。
その境界線を越えようとした蚊は、例外なく即死し、屍の山を築いた。
圧倒的な制圧劇。
それを見たフローラが、戦慄のあまり口元を押さえた。
「……見えざる死の霧……」
フローラが、揺らめく緑の煙を見つめる。
「この煙に触れたが最後、命ある者は魂ごと刈り取られる……。これは冥府の竜が吐き出すという禁忌のブレス、『死に至る霧』……!」
「ひぃっ!? やべぇよアニキ! その煙、あたいらが吸っても死ぬやつじゃねぇのか!?」
リナが慌てて口を押さえて後ずさる。
「死なん。人間には無害だ。……むしろ、微かなアロマ効果がある」
晶は煙を深く吸い込んだ。
心が落ち着く香りだ。前世の縁側を思い出す。
「くんくん……。むぅ?」
ポチも鼻を動かす。
「本当なのだ……。なんか、ポカポカして、眠くなる匂いなのだ……」
ポチの瞼が重くなり、とろんとしてくる。
満腹感と、心地よい香りの揺らぎが、単純な獣人を夢の世界へ誘っていた。
「ふあぁ……。ボク、もう寝るのだ……。おやすみなのだ……」
ポチはその場にゴロンと横になり、瞬時に寝息を立て始めた。
周囲には数千の蚊の死骸が転がっているというのに、その中央で無防備に腹を出して眠る姿は、大物と言うほかなかった。
「す、すげぇ……。『死の霧』の中で平然と寝てやがる……」
リナが引きつった顔で呟く。
「ポチちゃんもまた、毒を無効化する聖獣の資質をお持ちなのですね……」
フローラが感心したように頷く。
「……まあいい。これで安眠できるな」
晶は渦巻き香を、豚の形をした専用容器にセットし、ポチに毛布をかけた。
その夜。
『死に至る霧』の結界に守られた一行は、虫刺され一つなく、朝までぐっすりと眠ることができたのだった。
第1章・全38話完結保証しています。キリの良いところまでキッチリ読み切れます!
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第2章(ラーメン編)は執筆済みなので、第3章執筆のモチベーションに使わせていただきます。




