数秒の誤差
僕たちは、あの夜を境に、互いの呼吸を意識する伴走者となった。
君は、もはや焦燥という摩擦熱で自らを削るナイフではない。僕という鞘を得たことで、その鋭利さを最も効率よく、長く持続させる方法を身につけた。君の走りはしなやかになり、僕の鈍重なリズムを、計算された補助輪のように利用するようになった。
そして今日、トレーニングの終着点が見えた。
「――この先だ」
君が、ついに立ち止まった。僕たちの目の前にあるのは、錆びた鉄骨と、崩れた外壁に囲まれた、古いドーム状の施設だ。周囲には、所狭しと草木が深く生い茂り、時間の経過を物語っている。
「世界の終わりの舞台か?」僕は息を切らしながら言った。
「そうだよ。僕たちが間に合わなければならなかった場所だ」
君の瞳は、血走ってはいないが、深く、冷たい光を宿していた。
「あの日、僕は間に合わなかった。僕の計算は0.7秒遅れた。ただそれだけの差で、すべてはこうなった」
施設の奥から、微かに電子音のような、何かを測定する低音が響いている。それは、この世界がまだ「終わらない」のではなく、「終わりを待ちわびている」ような、奇妙な静けさだった。
君は静かに言った。
「僕たちは、この場所で、あの0.7秒の誤差を修正する。それが最後の任務だ」
僕たちが施設の中へ足を踏み入れた瞬間、アスファルトの熱とは違う、冷たく澄んだ空気が全身を包み込んだ。足元には、塵にまみれた数多の古い機械が転がっている。
君は、迷うことなく中央の制御盤へと向かい、指先でキーボードを叩き始めた。その横顔は、数日間の過酷なランニングから解放されたかのように、静謐で美しい。
「君は、外で待機だ」君は言った。「僕は、ここで時間の座標を再設定する。作業が終われば、空間の捻じれが起こる。僕が指定した位置から、全速力で駆け抜けろ」
「どうなる?」
「未来が変わる。過去が修正される。世界線が再構築される。……君は僕の『起動キー』だ。僕の指示通りに走る。それだけが、この世界を救う、最初で最後の『リセットボタン』だ」
僕には、君のやっていることの1%も理解できない。時間だの、座標だの、世界線だの。でも、僕の役割はシンプルだ。鈍感な身体で、ただひたすらに、君が設定したゴールへ一目散に走ること。
僕は制御盤から離れ、君の指定したスタート地点に立った。施設の中央には、巨大な時計の文字盤のような、複雑な模様が床に描かれている。
君が深呼吸をした。そして、僕をまっすぐ見た。
「聞いてくれ、伴走者」
その目には、焦りも恐怖もなかった。ただ、深い感謝と、そして――少しの安堵が浮かんでいた。
「僕は、この世界の時間を0.7秒巻き戻す。それは、君と出会う以前の時間だ。僕たちは、この瞬間、完全に分離し、別々の存在になる」
「……わかってる」
君は少しだけ笑った。
「僕のリズムを狂わせ続けた、最低な走り方をする泥船に感謝する。君がいなければ、僕はこの場所へ辿り着く前に、摩擦熱で灰になっていた」
そして、君は最後の指示を出した。
「行け! 僕の呼吸に合わせるな。君の、あの間抜けで、けれど決して止まらないリズムで走れ。これが、僕たちの最後の伴走だ!」
君の指が、キーボードの最後のキーを叩いた。同時に、空間が軋むような、地獄の鐘が鳴るような大音響が響き渡った。
僕の足元に描かれた模様が、眩しい光を放ち始める。僕は、反射的に地面を蹴った。
走る。走る。
僕には、もう君の姿は見えない。光と轟音に包まれて、君の存在はすでに、時間の彼方へと消えかかっているようだ。僕はただ、君が僕に託した「鈍感で、泥臭いリズム」だけを信じて、光の渦の中を突き進む。
どれくらい走っただろう。一秒か、永遠か。
突然、光が消えた。そして、大音響も。
僕は、無意識に足を止め、周囲を見渡す。
目に飛び込んできたのは、見慣れたアスファルトの道。いつもトレーニングで使っていた、平凡な、何の変化もない通学路だった。
世界は、終わっていなかった。いや、終わらなかった未来へと再構築されたのだ。
君が、あの0.7秒を修正した。
僕はそこに立ち尽くし、全身から力が抜けていくのを感じた。
その時、僕の横を、聞き覚えのある、完璧なリズムの足音が駆け抜けていった。
ハッとして振り向く。
そこにいたのは、間違いなく君だった。けれど、僕の記憶にある、極限まで張り詰めた「ゼンマイ仕掛けの人形」ではない。
君は、僕が知っているより少し若く、表情にはまだ余裕がある。初日に僕を指導していた時の、冷静で、鋭利な才能そのものの姿だ。
君は僕に気づいていない。なぜなら、この世界の君は、僕という伴走者に出会っていないからだ。僕がいた世界線の記憶は、君の中にはない。
君は立ち止まり、腕時計を見る。そして、僕の方を振り返った。
「おい、こんなところで突っ立ってると邪魔だぞ。遅刻する気か」
君の言葉は、まるで初対面のような、突き放した言い方だった。
「……遅刻は、しない」僕は笑った。この世界の君は、まだ僕を必要としていない。まだ「熱を持ちすぎていない」。
君はフンと鼻を鳴らし、再び走り出した。その背中は、依然として完璧で、そして、少しだけ孤独に見えた。
僕は、この世界線の「僕」が、いつか、この世界の「君」と再会し、あの日のように伴走者になるかどうかは知らない。
それでもいい。僕という緩衝材の存在は、君の未来を、「自壊しない」未来へと導いた。僕の任務は、これで完遂だ。
僕は、目を細め、空を見上げた。
雲一つない青空から、静かに、白い花びらが舞い落ちてきた。
ああ、季節が変わっている。
僕が走り始めたのは夏だった。そして、あの過酷なトレーニングは秋を通り越していた。
でも、今は違う。空気は暖かく、優しく、そして、どこからともなく甘い香りが漂っている。
辺りを見渡せば、通学路の並木道が、淡いピンクの花で満開になっている。
僕は、そっと胸に手を当てた。心臓が、あの時のように悲鳴を上げる代わりに、穏やかなリズムを刻んでいる。
そして、僕は、走り出した君の背中を、まっすぐに見つめた。
君と僕が新たな運命を駆け抜けて桜舞う頃には、君と走り出したい
( 完)




