熱を手放す皮膚
「休憩なし」のトレーニングが始まって、今日で3日目だ。あるいは4日目かもしれない。
昼と夜の境界線は曖昧になり、僕たちの意識は、ただ「足を繰り出す」という単純な信号のループの中に溶け込んでいた。
「遅い。リズムが崩れてる」
前を走る君の声が、鋭い鞭のように飛んでくる。
その声には、初日にあったような余裕も、指導者としての冷静さもなかった。あるのは、焦燥感だけだ。
君の背中は、鬼気迫るものがあった。
完璧なフォームであることに変わりはない。けれど、その筋肉は張り詰めすぎている。まるで、極限まで巻き上げられたゼンマイ仕掛けの人形のようだ。いつ弾け飛んでもおかしくない。
「あと0.5秒、ペースを上げて。今のままじゃ、世界の終わりに間に合わない」
君は腕時計を見ずに言った。君の体内時計は、原子時計よりも残酷に、残された時間をカウントダウンしているのだろう。
僕たちは走り続けた。アスファルトからの熱が、容赦なく体力を奪っていく。
その時だった。
路上の小さな段差に、君がつまづいた。
転倒はしなかった。ほんの一瞬、体勢が崩れ、数歩分だけリズムが乱れた。ただそれだけのことだ。
しかし、君はまるで致命傷を負ったかのように、顔を歪めた。
「くそっ……!」
君は舌打ちをし、乱れた分を取り戻そうと、急激に加速した。
それは「走り」ではなかった。自分自身への「罰」であり、地面への「八つ当たり」だった。呼吸が荒れ、足音が乱暴になる。
このままじゃ、壊れる。
君という高性能なエンジンは、摩擦熱を持ちすぎて、自らを焼き尽くそうとしている。
僕は、歯を食いしばってペースを上げた。心臓が悲鳴を上げているが、無視する。
君の隣に並ぶ。
横顔を見た君の瞳は、血走っていた。そこに見えているのは、今の景色じゃない。「間に合わなかった過去」の幻影だ。
「離れろ。巻き込むぞ」
君が低い声で威嚇する。
「離れない、このままいく」
僕は、あえて君の肩が触れるほどの至近距離に体を寄せた。
「何をしてる! リズムが狂うだろう!」
「狂わせているのは君だ。……熱くなりすぎてる」
僕は、自分の荒い呼吸を、意識的に深く、ゆっくりとしたものに変えた。
吸って、吐いて。吸って、吐いて。
僕という平凡な、精度の低いエンジンが吐き出す、泥臭い排気音。
君の鋭利で張り詰めた呼吸のリズムに、僕の鈍重で大きなリズムを無理やり割り込ませる。
「僕に合わせろ、とは言わない。ただ、僕を使え」
僕は、走りながら言った。
「君は鋭すぎる。切れ味の良すぎるナイフは、鞘がなければ自分を傷つける。……僕が、その鞘になる」
君が、僕を睨んだ。
けれど、僕は視線を逸らさなかった。
君が抱えている恐怖、焦り、後悔。それらが生み出す莫大な「熱」を、僕が受け止める。
僕には、君のようなスピードはない。未来を見通す目もない。
でも、僕には「痛みに耐える鈍感さ」がある。ずっと世界に取り残され、凡人として這いつくばってきた「打たれ強さ」がある。
それが、君という繊細な才能を守るための、緩衝材になるはずだ。
「……息を、吐け。全部、僕の方に吐き出せ」
僕の言葉に、君は一瞬、呆気にとられたような顔をした。
しかし次の瞬間、君は大きく口を開き、肺の底に溜まっていた熱い塊を、長く、深く吐き出した。
「ふぅぅぅぅぅ…………ッ」
その吐息と一緒に、君の身体から余計な力が抜けていくのがわかった。
強張っていた肩が下がり、足音が柔らかくなる。
ギリギリと軋んでいた君のリズムが、僕の少し間抜けで、けれど決して止まらない一定のリズムと混ざり合い、落ち着きを取り戻していった。
しばらくして、君がボソリと呟いた。
「……音感の悪い走り方だ」
「なんとでも言え」
「泥船に乗せられている気分だ」
「沈まない泥船だ」
君の口元に、微かだが、皮肉めいた笑みが戻っていた。
それは、恐怖に支配された顔ではなく、共に走る仲間へ向ける顔だった。
「わかったよ、伴走者。……少しだけ、お前の鈍感さに甘える」
君は再び前を向いた。その走りは、先ほどまでの鋭利さこそ潜めたが、代わりに、どこまでも走り続けられそうな「しなやかさ」を魅せていた。
平凡であること。それは、何も持っていないということではない。
誰よりも衝撃を吸収し、誰よりも熱を逃がし、天才が壊れるのを防ぐためのクッションになれるということだ。
それが、僕が果たすべき役割なのだと、僕は確信した。
僕たちはまた、一つのリズムになった。
世界が終わるその瞬間まで、僕はこの熱を、冷ますことなく守り続ける。
(第5話 完)




