痛みの共存
僕は、河川敷に倒れ込んだ。土の匂い、汗の塩気、そして、心臓が爆発しそうなほどの激しい鼓動。すべてが、僕がまだ生きているという、紛れもない証拠だった。
君は、僕から少し離れた場所で、涼しい顔をしてストレッチをしている。その姿は、まるで彫刻のように精悍で、僕が追いかけるべき『未来』そのものに見えた。
「今のスピードじゃ、『間に合わなかった過去の私』を追い越すどころか、せいぜい一緒に立ち止まって、悲しみに浸るくらいしかできないよ」
君は淡々と言った。そこに非難の色はなく、ただ事実を指摘しているだけだった。
僕は立ち上がれなかった。疲労だけではない。胸を締め付けるのは、君の過去を知ってしまったことによる、重い感情だった。
「…君は、自分の弱さを隠すために、必死に走っていたんだな」
そう口に出すと、君の動きがピタッと止まった。
「弱さ?」
「そうだ。君は、誰よりも『立ち止まること』を恐れている。だって、立ち止まったら、またあの時の後悔に追いつかれてしまうからだろう?」
君はゆっくりと僕の方を振り返った。その瞳は、朝日のせいで少し眩しそうに細められていたが、僕の言葉が核心を突いたことを知っていた。
僕は、地面に残った乾いた土を指で払い、続けた。
昨日、君は『諦める感受性をぶっ壊すと言った。それは、体力だけじゃない。君が今やろうとしているのは、『心を閉ざす感受性』をぶち破ることだ」
体力だけじゃない。
僕が、君の隣に歩み寄る。そして、君が昨夜、自分の胸にそっと手を当てたのと同じように、僕は君の肩に手を置いた。
「君の家族のことは、僕にはどうすることもできない。でも、これから先の77日、僕は君が一人で立ち止まるのを防ぐことはできる」
君の瞳が、僅かに揺れた。強すぎる光を湛えていたその目に、初めて『影』が宿ったように見えた。
「僕の走りはまだ遅い。君の背中を追いかけるのが精一杯だ。でも、もう、ただの訓練じゃない。君の『運命へのレース』に、僕は伴走者として参加させてもらう」
僕は、君が追い求める未来の可能性を掴みに行く、という強い意志に心を打たれていた。それは、いつの間にか僕自身の『生きる理由』へと昇華していた。僕の心臓は、もう恐怖や疲労ではなく、君という『目的地』への強い愛着によって鼓動していることを知った。
君は、数秒間、何も言わなかった。やがて、深く息を吐き出すと、僕の肩に乗せられた手を、力強く握り返した。
「…わかった」
君は、いつもの凛とした笑顔に戻ったが、その笑顔は以前よりもずっと優しかった。
「じゃあ、伴走者。今日からメニューを変える。今日からは、僕たちの身体だけじゃなく、『時間の感覚』をぶっ壊すトレーニングだ」
君は河川敷の、さらに上流を指差した。視界の端に見える、崩れた橋桁。
「世界が終わるまで、あと77日。刻一刻と時間が減っていく中で、『この一秒をどこまで伸ばせるか』が僕たちの戦いだ」
「どういう意味だ?」
「シンプルだ。今日から、僕たちのトレーニングは、休憩時間なしだ。止まるのは、文字通り死ぬ時だけ。そして、走る距離を、今日の倍にする。目標は、毎日太陽が昇るまでの間に、この街を半周すること」
僕の身体が、再び警鐘を鳴らし始めた。それは、死の恐怖ではなく、限りなく高まる挑戦への興奮だった。
「いいだろう。世界が終わるまで、あと77日。君の『間に合わなかった過去』と、僕たちの新しい『未来』のために」
僕たちは、再び走り出した。乾いた土を踏みしめる二つの足音は、もはや別々のものとしてではなく、一つの強いリズムとして、静かな朝の河川敷に響き渡った。
(第4話 完)




