運命と抗う心の中で
世界があと三ヶ月で終わるとしたら、人は誰と過ごすのだろうか。
ニュースキャスターが淡々と告げる「終末」のカウントダウンを、僕は他人事のように聞いていた。
でも、君だけは違った。
「ねえ、トレーニングしようよ」
絶望的な状況で、君はスニーカーの紐を結びながら不敵に笑った。
「桜が舞う頃に、運命より速く走れたら、私たちは助かるかもしれない」
(……それはあまりにも馬鹿げた賭けだったけれど、君となら、あるいは。)
そう思った瞬間、僕は無意識に頷いていた。
君は満足げに頷くと、「じゃあ、まずは足元を固めなきゃね」と僕の手を引いた。
向かった先は、すでにシャッターの大半が閉まった商店街にある、古びたスポーツ用品店だった。
店主の老人は、テレビで流れる『巨大隕石、衝突回避の可能性は極めて低い』というニュースを背中で聞きながら、ぼんやりと空を眺めていた。
「おじさん、一番軽くて、一番速く走れる靴を二足ください」
君の凛とした声に、老人はゆっくりと振り返った。
「……お嬢ちゃん。金ならいらんよ。どうせ紙切れになる」
老人は棚から埃をかぶった最新モデルのスニーカーを取り出し、僕たちの前に放った。
「好きに持っていきな。逃げる役には立つだろう」
「逃げるんじゃないわ」
君は靴紐をきゅっと固く結び、まっすぐに老人を見据えた。
「私たちは、向かっていくの」
店を出ると、乾いた冬の風が落ち葉を踊らせていた。
君は真新しいスニーカーのつま先を地面に打ち付け、軽くジャンプをする。
「ねえ、知ってる? 人間が一番速く走れるのはね、何かから逃げる時じゃないの」
君は僕の方を振り返り、悪戯っぽく笑った。
「何かを追いかける時なんだって」
僕たちは走り出した。
最初の数百メートルで、僕の息はすぐに上がった。運動不足の心臓が早鐘を打ち、肺が悲鳴を上げる。
景色が後ろへ流れていく。シャッターの下りた店、肩を落とし歩く人々、点滅し続ける信号機。
それらがすべて、ただの「背景」に変わっていく。
苦しい。喉が焼けるように熱い。
けれど、不思議だった。
ただ走っているだけのこの瞬間、僕の頭の中から「あと三ヶ月」という死の宣告が消え失せていたのだ。
聞こえるのは自分の荒い呼吸と、隣を走る君のタッタッという軽快な足音だけ。
信号待ち(もう車なんて走っていないけれど)で膝に手をついて休んでいると、君がスポーツドリンクを投げてよこした。
「悪くないペースだよ。これなら、桜に間に合うかもね」
「……本気で、助かると思ってるのか?」
僕が息も絶え絶えに尋ねると、君は汗ばんだ前髪をかき上げながら、夕焼けに染まる空を見上げた。
「さあね。でも――」
君は僕を見て、今日一番の笑顔を見せた。
「家で膝を抱えて泣いているよりは、ずっといい顔してるよ、君も」
その言葉に、僕は自分の心臓が、恐怖とは違う理由で激しく高鳴っていることに気づいた。
世界が終わるまで、あと79日。
僕たちの奇妙な特訓は、こうして幕を開けた。
(第1話 完)




