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「お帰りなさいませ」
「ただいま、ギルバート」
最初に出迎えてくれたのは、屋敷に仕える執事長のギルバートだった。
彼は私が生まれる前から公爵家に仕えていて、今では白髪の方が多い。
落ち着いた声と、わずかに刻まれた皺が、幼い頃から変わらない安心感をくれる。
「セレナお嬢様、旦那様がお呼びです」
「……わかったわ」
胸の奥がきゅっとなる。きっと、婚約破棄の件だ。
お父様は、私の話を信じてくれるだろうか……。
私は階段を上り、二階の奥にあるお父様の書斎へ向かった。
重厚な扉の前に立ち、深呼吸をしてコンコンとノックをする。
「お父様、セレナです」
「入りなさい」
中に入ると、机の向こうに座るお父様と、その隣に立つお母様の姿が目に入った。
「座りなさい」
言われた通りソファに腰を下ろすと、お父様も椅子から立ち上がり、お母様と並んで私の正面に座った。
「昼に倒れたと聞いたが、体はもう大丈夫なのか?」
「心配かけてごめんなさい。体は大丈夫です」
「そうか……」と、お父様は小さく息を吐いた。
「セレナが帰ってくる少し前に、城から早馬で知らせが届いた。そこには――『セレナとの婚約を破棄する』とあった。殿下と何があったのか、話してくれるかい?」
お父様もお母様も、怒るというより悲しそうに私を見ていた。
私は、先ほどカイルに話したことをすべて話した。
「……靄のかかった女性に、糸で操られた殿下、か」
お父様が腕を組む。
私は唾を飲んだ。信じてもらえるだろうか……。
「にわかには信じがたい話だが……セレナが嘘をつく子じゃないことは分かっている。――信じよう」
「お父様……ありがとう!」
「私も近いうちに城へ行く予定がある。その時に、殿下の様子を確かめてこよう」
「あなた、気を付けてくださいね」お母様が心配そうに言う。
「あぁ。それからセレナ、お前は城に行くのは控えなさい」
「え!? どうして!?」
「お前を危険な目に遭わせたくないんだ。その声が『目障りだ』と言ったのなら、次は何をしてくるか分からない。城の中のことは私とカイルに任せなさい、いいね?」
「……はい、お父様」
早くレオンハルトを助けたい。けれど、お父様の言う通りだ。
あの声の冷たさを思い出すと、胸がひやりとする。
その夜、ベッドに横になった私は、今日の出来事を何度も思い返していた。
カイルもお父様も協力してくれると言ったけれど……もし、どうにもならなかったら?
このまま、婚約は無かったことになるの?
――いえ、そんなのは嫌。
婚約破棄も悔しいけれど、レオンハルトをあのままにしておくなんて絶対にできない。
私にも、きっとできることがあるはず……。
私は不安を押さえつけるように深呼吸をして、明日会いに行く人のことを思い浮かべながら、眠りについた。
翌朝、朝食を済ませると、私は屋敷の裏に広がる森へ足を踏み入れた。
小さい頃、レオンハルトやカイルと何度も遊んだ、思い出の場所だ。
公爵家の屋敷の周囲には広大な土地が広がっている。そして、そこには昼間でも薄暗い深い森があった。
家の人からは「森にはあまり入るな」と言われていたけれど、子どもの頃は格好の遊び場だった。
かくれんぼをしたり、秘密基地を作ったり、小さな獲物を追いかけたり……ここで過ごした時間は楽しかった。
そしてある日、偶然見つけた不思議な場所があった。
「――あった! ここだわ!」
一見ただの茂みに見える場所。
子どもの頃と同じように草木をかき分け、奥へ奥へと進んでいく。
枝葉が頬に当たり、靴が落ち葉を踏みしめる音がやけに大きく響いた。
やがて視界が開け、そこに現れたのは、小さな一軒の小屋だった。
外には、大きな壺や木箱が並び、干された獣の皮やカエルが風に揺れている。
どこか生活感があるのに、背筋がぞくりとする光景。
私は小屋の前に立ち、少し緊張しながら扉をノックした。