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「君との婚約は破棄する」
「え……?」
一瞬、何を言われたのか理解できなかった。
いつもの昼下がり。私はこの国の第一王子、レオンハルト殿下に呼ばれて、色鮮やかな花が咲き誇る庭園でお茶をしに来たはずだった。
レオンハルト殿下と、私――公爵家の長女セレナは、幼馴染であり、婚約者でもある。
私たちは互いに愛し合っていた。……少なくとも、私はそう信じていた。
けれど、殿下が私に会うたび贈り物をするものだから、城の人々からは「殿下が貢がされている」「金の亡者だ」と陰口を叩かれていた。
私は一度だってねだったことなどないのに。
以前は王様や王妃様も私を庇ってくださった。
けれど最近は、私が城に顔を出すと「また来たのか」とため息をつかれるようになった。
殿下から贈られる物は日に日に豪奢になり、希少な宝石や美術品までプレゼントされる。
お城で受け取りを断れば、今度は屋敷に送りつけられる。止まらぬ贈り物に、両親は困り果てていた。
――そして今日。
部屋に迎え入れられた時、殿下の表情は少し冷たかった。けれど私は気のせいだと思い込んだ。
いつもと同じようにメイドがお茶を注ぎ、私と殿下は向かい合って他愛もない会話を交わす。
最後には必ず「愛している。あと2年、君が16歳になったら結婚しよう」と愛を囁いてくれる。
そして、今日もそうなのだろうと、疑いもしなかった。
なのに、どうして。
「好きな女性ができたんだ。セレナにも紹介するよ」
そう言って、殿下は立ち上がり、一人の女性を部屋へ招き入れた。
部屋に入ってきたのは、質素な平民の服をまとい、化粧気もない地味な女性。
「彼女を愛している。心の清らかな女性なんだ」
そう言って殿下は、その娘を慈しむように見つめた。
……え?
彼女の顔に黒い靄がかかっているのが見えた。
私は目をこすって、もう一度、彼女を見る。
変わらず、彼女の靄は消えない。
ふと、すぐそばで、キラリと何かが光ったのに気づく。
レオンハルトの頭から天井に伸びる、いくつかの線。
糸のようなものが数本、キラキラと光っている。
あれは、何? まるで、人形を操っている糸のような…。
まさか、レオンハルトは操られているの…?
「レオンハルト、何かおかしいわ!あなたの上に糸のようなものが…!」
そう言って、私はレオンハルトに近づき、彼の頭上の糸を払おうとした。
しかし、そのキラリと光る糸に触れることが出来ない。
どうなってるの? 確かに糸のようなものが見えるのに…。
私が混乱していると、レオンハルトは苛立ったように腕を振り払った。
「何をしているんだ。おかしな真似はやめてくれ」
「違うの!本当に見えるの…!それに彼女も、なんだか普通じゃないわ!」
「何を言ってるんだ。彼女のことを悪く言うことは許さない。」
殿下の声は冷たく、瞳は虚ろに濁っていた。
「彼女は美しい。君のように贅沢をを好んだりしない。私の心は、もう彼女のものだ」
――そんな、どうしてこんなことに…。
その時、不意に頭の奥に声が響いた。
地を這うような、冷たい男性の声。
『……ほう、この糸が見えるのか。だが、目障りだな』
突然、激しい頭痛に襲われ、視界が暗転する。
***
次に目を開けた時、見慣れた自室の天井があった。
どうやら私は、気を失ってしまったらしい。
窓の外はまだ明るく、そんなに時間は立っていないように見える。
倒れた私をそのまま、公爵家の屋敷へ送り返すなんて…。
……お城で休ませることすらなく?
以前の優しかった彼じゃない。
かつての彼なら、きっと私を気遣ってくれたはず。
それとも、もう婚約者じゃなくなった私には、そんな気遣いはしないということなの?
レオンハルトは誰にでも優しい人だった。
城内の使用人にも、城下町の人々にも。
王子でありながら、よく城を抜け出しては町の人々と触れ合っていた。
困っている人を助け、重い荷物を運び、小さな子どもたちと遊ぶ。
そんな姿を町の人々は温かく見守り、私もまた、そばで見ていた。
なぜ詳しいのかと言えば――私自身、幼い頃によくレオンハルトと一緒に、城を抜け出していたからだ。
私たちは小さい頃にお茶会で出会って、それから何度も顔を合わせるうちに仲が良くなって。
お城に私が遊びに行ったり、公爵家の屋敷にレオンハルトが遊びに来てくれたり。
親からレオンハルトとの婚約を聞いた時は驚いたけど、私たちは自然とそれを受け入れていた。
その時にはもう、お互いに惹かれ合っていたから。
いつからだったか、手が触れると照れてしまうようになって。
そしてそれは、レオンハルトも同じだった。
婚約者と決まってからは、一緒にお城を抜け出して遊ぶことはなくなった。
多分それまでは、周りも見逃してくれていたのだと思う。
王家に嫁ぐための勉強が始まった初日「王子妃として、ふさわしい行動じゃありません!」と教育係に厳しく言われた。
あの頃から、レオンハルトは贈り物をくれるようになった気がする。
彼は変わらず城下町に通い、そこでの出来事を楽しそうに話してくれた。
その話を聞くのが、私は大好きだった。
町の人々の声も、彼の優しさを物語っていた。
「この前、殿下がうちの子と遊んでくれね。すごく喜んで喜んでいたのよ」
「うちの店に来てくれた時は、重い果物の入った木箱を運んでくれてね。腰が痛かったから助かったよ。殿下はきっと立派な王様になるね。楽しみだよ」
変わらぬレオンハルトの姿に、私は心から微笑んだ。
彼は皆に愛される王子だった。
そんな人のお嫁さんになれることが、嬉しくて、誇らしかった。
彼にふさわしい女性になろうと、苦手な勉強だって頑張れたのに。
――それなのに。
私は婚約を破棄された。
私は自嘲する。
けれど、あの女性の姿も、頭に響いた声も、明らかに異常だった。
「……一体、何者なの?」
私は真実を確かめるため、再び城へ足を運ぶ決意をした。