帰郷
ゆるり、ゆるりと書いています。
ひとの心のヒダを1枚1枚書き表せたら、と思います。
市役所のエレベーターは古く、3階まで昇るのに、みしみしときしんだ。
チン、という気が抜ける音とともに薄黄色に汚れたフロアが広がった。
転出届けは案外記入する欄は少なく、5分で書き終え、5分で転出証明を受けとれた。
手元の転出先の住所をなぞった。
海沿いの町は、脳裏に描いても水墨画のようなタッチでおぼろげにぼやけていた。
二度と帰ることはないと思っていた町。
郷愁の念とはどういうものだろう。
帰郷への拒絶感は、転出届けを受けとってなお増すばかりだった。
引っ越し作業でくたびれた重たい首をゴキリとならし、駅へと急いだ。
夕暮れの京都駅正面に、京都タワーが反射して揺れていた。
雑踏。雑踏。雑踏。
吹き抜けのホールをくぐると、いつものJRの喧噪だった。
キオスクで、250ミリリットルのペットボトルのお茶と
おにぎりを1つ買った。
大抵昼過ぎまでに、おにぎりは売り切れてしまうのに、今日はあった。
ベージュ色の特急電車はよく揺れた。
がらがらの車内は樟脳の匂いとビールの匂いが充満していた。
赤いスーツケースは母のお下がりだった。
布製で、たくさんの袋がついていて一見便利そうだが
でこぼこしているので、見た目よりも置くスペースを要する。
案の定、足下に置くと、前後左右が狭い座席には収まらない。
中にはパソコンが入っている。
引っ越し業者へダンボールで渡してもよかったのが、
やはり心配になって自分の手で持ち込むことにした。
車窓から見る景色は、
だんだんと彩りを失って、霧が深くかげる山中にさしかかっていた。
見頃をとうに過ぎた山桜が、ぽつりぽつりと規則性なしに山の裾野あたりに
顔を出していた。
いつの間にか小雨が降り出していた。
窓から冷気が侵入し、体を震わせた。
夜は小雨に連れられるようにやってきて、
霧の野山をすっかりと包んでいた。
あたりを照らすものは、たまにぽつっとある民家の明かりだけだ。
ゴトン
大仰な音をたてて停車した。
駅に明かりはない。
潮美は赤いスーツケースをひきずるように
押し歩き、無人の改札を通り過ぎると
待合室が目に入った。
季節外れのストーブの周りで蛾がいくつも飛んでいた。
そのストーブの前に、はげた白い木製のベンチが置かれていた。
そこに、腰掛けていた男と目が合う。
ものの3秒ほどだっただろうか。
視線がほどけるまでに要した。
同時に、暗闇にクラクションの音が響いた。