09.基本のフォンドボー 準備編
本格的な冬のシーズンを迎え、街道を行く旅人はかなり減った。
我が家を訪れる客も少なくなり、冬は静かに過ぎていく。
その後やって来た茶髪男の話では、砦には無事にキャベツや砂糖、ナッツが届けられ、回復魔法が使える魔法使いも派遣された。取りあえず冬風邪の患者は例年並に収まっているという。
町もいつもと変わりない。
まずまず防疫は成功したと言っていいだろう。
暇な時間を利用して私はノアとミレイの勉強を見てやることにした。
元々頭の良い子達なので、スポンジが水を吸収するように、あっという間に学んでいく。
キャシーは着々と我が家のリネンに刺繍を入れ、今は予備分のテーブルクロスや巾着に刺繍を刺してくれている。春になって訪れる客に引っ張りだこだろう。
キャシーは食堂に置いている手製の魔石ランプを「明るくて目が疲れにくい」と気に入って、作業を食堂でやる。
隣のテーブルでは、そんなキャシーの仕事を眺めながら、私が子供達に勉強を教えている。
私とキャシーはどちらも口数が多いという方ではないが、ノアとミレイを介してそれなりに仲良くやれている。
三人が居なければ冬はもっと寂しい季節になったに違いない。
黒髪男は二週間に一度程度やってくるようになった。
茶髪男は砦とその周辺の防疫対策に注力しているとかで、黒髪男一人だ。
男は来る度に珈琲豆や果物など、珍しいものを土産にくれる。
例の重曹は百倍くらいの量になって返ってきた。
黒髪男の幾度目かの来訪時だった。
店内に他に客の姿はなく、私は「頂いたもので申し訳ありませんが」と黒髪男に珈琲を出した。
豆をより分けるのと珈琲豆を挽くのは男がやり、私は自分と黒髪男の二人分の珈琲を淹れた。
キャシーは珈琲はあまり好みではないそうだ。子供と一緒に別の部屋でホットミルクを飲んでいる。
珈琲を一口啜った後、黒髪男は話し始めた。
「実はあなたの乾燥システムと魔石で暖を取る方法を砦で導入した」
「それは……」
私は驚いた。
我が家の乾燥機も魔石の暖房使用もはるか昔から理論的には確立している。
だが我が国では魔法を生活に利用することはほとんどないのが現状だ。
これは多くの国で魔法使いが迫害を受け、家畜のように扱われていた古い歴史に由来する。
その結果、魔力持ちは数を減らし、次に各国は魔法使い保護に躍起になった。
稀少な魔法使いを暖炉を温めたり、洗濯を乾かしたりという「下賤」の仕事には使わない。
魔法使い達も己の能力に誇りを持ち、そしてかなり高給で雇われているため、そうした仕事を嫌う傾向にある。
魔力持ちに貴族が多いことも理由の一つだろう。
私の乾燥機も暖炉も暇な魔法使いの手慰みというべきもので、魔法本来の使い方ではない。良識者からは眉をひそめられるような外法である。
魔術回路を損傷し、今は下級魔法使いに成り下がった私ならともかく、戦闘用の現役の魔法使い、魔法騎士がよく協力したなと私は感心した。
「その辺は、デニス――私に同行していた騎士の名だ――が上手くやってくれた。まあ一番は、砦という劣悪な環境だろうな。とにかく寒いし、洗濯物は乾かない」
黒髪男は砦勤務の経験があるのか、「はぁー」と深いため息をついた。
さすがの魔法使い達も実利を取ったという。
「軍も魔法使いの任務外での魔法を禁じていた」
駐屯地ではいつ戦闘が起こるかも分からない。魔法使い達に不用意に魔力を消費させれば、肝心な時に使い物にならない。
余剰と分かっていても、軍には魔法使い達に魔力を使わせたくない事情がある。
「だがそうしたやり方は、魔法使いの能力を狭くすると私は思う」
と黒髪男は言った。
「……それは……」
「現在魔法使いに求められるのは、攻撃魔法の強さのみ。しかし魔法というのは、もっと自由であるべきだと私は、考える」
様々な感情が心の内をざわめかせる中、私は黒髪男を見つめた。
「それは、私も同意見です」
私はかつて高い魔力を誇る魔法騎士だった。
自分の魔力にうぬぼれもあったので、現行の攻撃魔法偏重のあり方にまったく疑問を持っていなかったが、今、魔力を失って思うのは、魔法とはそれだけではない。もっと大きな可能性を持つということだ。
しかし失って初めて分かる境地であって、この男のように現在力を持ちながら、「それ」に気付くことは、私はなかった。
……何と言うか、人としての格の違いを思い知らされた気分だ。
だが黒髪男は言った。
「そう、考えさせてくれたのは、君のおかげだ」
「私の?」
「乾燥室も暖炉も便利さを知っていたから、導入出来た。それがなければ、私も皆を説得することは不可能だった」
「お考えの一助になったのなら幸いです」
と私は言った。
乾燥室の設置と暖房用の魔石の導入で、砦はいつになく快適な冬を過ごしているそうだ。
他の駐屯地でも生活魔法の運用を進めていくという。
ところで黒髪男は不運な奴である。
かねてより黒髪男は「ビーフシチューが食べたい」と望んでいた。
ビーフシチューは「世の中にこんなに美味い物があるのか」と私が開眼した料理である。
私の人生を決めたと言っても過言でない一皿で、「毎日でも食べたい」と思ったが、実際にどんな好物でも毎日はいただけない。
一度作ると客が多い夏で二日、冬だと下手すれば四日ぐらい延々とビーフシチューを食べ続けることになる。
そういうわけで我が家ではビーフシチューを作るのは冬場は一ヶ月に一度と決めている。
なかなかタイミングが合わず、彼は一度もビーフシチューを口にしていない。
「明日は休みなので今日は泊まらせて貰う」
と言ったその日のメニューもビーフシチューではなかった。
そろそろビーフシチューを食べたくなり、まずはビーフシチューに使うフォンドボーを作ろうと思い立ったのが、その日の朝だった。
それを告げると、黒髪男は、
「丁度良い。ビーフシチューを作るところを見てみたかったんだ。私にも手伝わせて欲しい」
と言った。
作るのはビーフシチューではなく、前段階のフォンドボーだが、実はこの二つの料理の最初の工程はほとんど同じなのだ。
「フォンドボー作りは大変ですよ。肉体労働です」
「ならば尚更、君一人にはさせられない」
黒髪男は騎士道精神の鑑みたいなことを言った。
冗談かと思ったが、意外と決意は固かったので、手伝って貰うことにした。
まず、騎士服が汚れてはいけない。騎士服を脱いで、着替えて貰う。
騎士服は汚すと怒られる支給品である。どこの騎士団でもこれは変わらないはずだ。
黒髪男は着ていた黒の騎士服を脱いだが、その下に身に付けている白いシャツも汚れ一つない上物だ。
これに血しぶき付けたら黒髪男の家の使用人が泣くだろう。
私はシャツも脱ぐように言い、代わりに破棄予定のシーツでキャシーがこしらえてくれた下処理時専用のスモックを着せた。
その上に下処理専用のエプロンを付けさせる。さらに頭には三角巾、手には丈夫な皮のグローブを嵌める。
「重装備だな」
と黒髪男は目を丸くしたが、これがフォンドボー作りである。
用意が調ったら、作業開始だ。