07.愛を捧ぐ1
「アルヴィン……」
私は彼の名を呼んで、沈黙した。
怖くなったのだ。
彼は私をどう思っただろうか?
政治に口を出すとは、およそ女らしくない、出しゃばりな、知恵の浅い、戦争好きな、落ちぶれた元騎士、切り捨てられた者。
蔑みの言葉ならいくらでも思いつく。
誰にどう思われても構わないが、アルヴィンにそう思われるのは、辛い。
アルヴィンはそっと私に近づいた。
ビクリと震える私に、アルヴィンが囁く。
「リーディア、ここでは話が出来ない。君の部屋に行かないか?」
部屋に入ると私達は腰を下ろした。
小さな部屋に椅子は一つしかなく、もう一人はベッドに座るしかない。
アルヴィンは私に椅子を譲り、自分はベッドに腰掛ける。
アルヴィンは先ほどまでの寝間着ではなく、シャツとスラックスに着替えていた。
その姿を見て、とんでもないことに巻き込んでしまったと改めて思った。
アルヴィンは椅子に腰掛けると、ズボンのポケットをごそごそと探り、携帯用の小型水筒を取り出した。
一口飲んでから、
「ほら」
と差し出された。
水筒の中身はアルコール度数の高い酒だ。
勧められるままに私は酒を煽った。
喉が焼けるような酒の味は、久しぶりだった。
「申し訳、ありません」
酒の力でするりと謝罪が出来た。
アルヴィンの顔は見られない。
短い沈黙の後、声をかけられる。
「何故、君が謝る?」
私は意を決して顔を上げた。
海のように深い碧眼は、静かに私を見つめていた。
「ゴーランを、戦いに巻き込んでしまったことです」
「リーディアが心配するようなことではない。俺が決断した。この後ゴーランに起こる全ての責任は俺にある」
アルヴィンは断言した。
「ですが私さえここに居なければ、王太子殿下が来ることもなかった。そうすれば、あなたがゴーラン軍を率いて参戦することもありませんでした」
私の存在がこの地に戦禍を呼んだのだ。
「それはその通りだな。だが先程のリーディアの提案はなかなか良かった。南部からの流民も日に日に数を増やしている。ここらで俺も行動せねばならないと思っていたところだ。それもギール家も潰せる。良いことずくめだが、正直に言って、リーディアには少し失望した」
「…………」
その言葉は胸に刺さる。
「リーディアは俺から王太子殿下を守ろうとしたな」
「……はい」
「ゴーランがこの国を捨てる可能性を捨てきれなかったか?」
お見通しか。
私は頷いた。
「……はい」
ゴーランは王妃派と対立している。王妃派が擁する第二王子が王になるのは、ゴーランにとってはあまり良くない未来だが、だからといって、アルヴィンが無条件にフィリップ様を支持することも考えにくいのだ。
ゴーランには奥の手がある。
ゴーランは今、国内の中央より西の隣国の方が余程仲が良い。
私が怖れたのは、ごたごた続きの中央部など切り捨て、アルヴィンがゴーラン領を持って西の隣国に寝返るという計画だ。
そうなれば誰が国王になろうと、南部や我が国がどうなろうとゴーランには関係ない。
ただ、これはあくまで奥の手だ。
ゴーランが隣国に併合された場合、間違いなく我が国と戦争になるだろうし、そうすればゴーランも無傷ではすまない。
だがゴーランは金も軍事力もある。損失は最小限に抑えられるだろう。
南部全体を食わせることが出来る備蓄は一地方領が抱えるレベルを超えている。アルヴィンは何事があっても良いように備えていた。
アルヴィンの王への不信は深い。
フィリップ様は王妃の被害者だが、同時に王の子でもある。
「先程の王太子とリーディアの様子を目の当たりにして、俺はとても嫉妬した」
「え?」
嫉妬って何だ?
どこに私とフィリップ様に嫉妬する要素があった?
「リーディアは王太子を守ろうと必死だった。その姿はまるで子熊を守る母熊のように凜々しく荒ぶっていた」
荒ぶる……。
なんで私は熊に例えられているのだろうか。
しかもまだ未婚なのに、母熊に。
もしかしてからかっているのかなとアルヴィンの顔色をうかがう。
だがアルヴィンは至極真面目な表情で、口惜しげに続ける。
「あの時のリーディアは命に代えても王太子を守るという気概に満ちていた。それが俺は悔しくてならない」
「悔しい……ですか?」
「そうだ、リーディア、君は俺が王太子に危害を加えることを怖れていた。だがどんな時も俺は君の味方だ。君の大切な人を俺が傷付けることはない」
「アルヴィン……」
確かに私はあの時、アルヴィンをこちら側に引き込もうと必死だった。
それは無条件に自分とフィリップ様を同一陣営に置いた行為で、そしてアルヴィンはその外側の存在だった。
だが、アルヴィンは言う。
「君はあの時、俺に『助けてくれ』とただ一言言えば良かった」
私は瞠目する。
「……そうすれば、アルヴィンは私を助けてくれましたか?」
アルヴィンは力強く頷く。
「もちろんだ。俺は必ず君の力になる」
「アルヴィン……」
「もっとも、王太子殿下の器量は確認したいし、覚悟も聞かせてもらう。戦費もきっちり払って貰うからその算段もご提示願ったとは思うが……」
それじゃあ結局、同じことになったのでは? という感想は間違いだろうか?
「それでも俺はリーディアの望みを叶えるよ。君が王太子を守りたいなら、俺も彼を守ろう。だからどうか、俺の愛情だけは疑わないで欲しい。どんな時も俺はリーディアの味方だ」
アルヴィンが助けてくれるなら、きっと勝てると分かっていた。
だが、自分の言葉にそんな価値があるとは思ってもみなかった。
そもそも私はアルヴィンの愛情というものを信じられなかった。
王都から来た女が珍しいだけで、そのうち飽きられるだろうなと心のどこかで、疑い続けていた。それは自然と己を律する自制となった。
二十八歳。
もう恋愛に舞い上がる年ではないし、何時捨てられても別に大したことではないと、自分に言い聞かせていた。
だが、信じて良いのだろうか?
無駄に年齢を重ねた私は、この期に及んでアルヴィンの愛を受け入れることが出来ない。
「それより、君は良かったのか?」
アルヴィンの問いかけは私にとって意外なものだった。
「私ですか?」
「ああ、リーディアはずっともう騎士に戻るつもりはなかっただろう?」
「……騎士に戻るっていっても私は兵力にはなり得ませんよ。戦えませんから」
つい自嘲気味に答えた。
私にはもう誰を守る力もない。
怪我を負った時、私は国一番といわれる回復魔法師の治療を受けた。それでも魔術回路の損傷は癒やせなかった。
魔法を発動する仕組みというのはデリケートなもので、ちょっとしたきっかけで魔法使いはその力を失ってしまう。
知識としては知っていたが、いざ自分の身に降りかかった不運は私にとって「よくあること」ではなく、受け入れがたい晴天の霹靂だった。
国内で最高の治療を受けて駄目だったのだ。
この体は治らない。
納得して退役した私だったが、心のどこかで諦め切れてはいなかった。
ゴーランに来てからも私は魔術回路の回復を願って体にいいというものをいろいろ試した。
ノームのくれた大地の滴も飲んでみた。それでも効果はなかったのだ。
私はもう魔法騎士としては働けない。
だがアルヴィンはとんでもないことを言い出した。
「俺が進軍するなら、リーディアにも騎士として復帰して貰うぞ」
「は? 無理ですよ、私は魔術回路が……」
アルヴィンは頭を振る。
「分かっている。だが旗印になるのは、リーディアしかいない」
「旗印?」
「そうだ。セントラルの魔法騎士リーディア・ヴェネスカは南部に幾度も参戦し、彼の地に勝利を与えてきた。戦場で見せた絶大な魔法の力で、君は南部の勝利の象徴になっている」
「え?」
初めて聞いたが……。
「民は見ている。総大将が誰だったかなんて知らなくても、君が汗にまみれて血反吐吐きながら勇敢に戦った姿を。同時にスロランの兵達も覚えている。彼らはリーディア・ヴェネスカを白い悪魔と呼び、名前を聞いただけで震え上がったという」
「はあ……」
当時は若い娘だった私なので「白い悪魔」の異名はあんまりだなとちょっと思った。
セントラルの魔法騎士の甲冑は白。そこから白い悪魔呼びされたのだろう。
「王太子殿下はまだ戦場での功績がない。ゴーラン騎士団も南部ではまったく無名だから、リーディアの名が一番効果があるんだが……」
「そういうことでしたら、お使い下さい。騎士にでも何でも復帰します」
「リーディアがそう言うのは分かっていた、だが……」
アルヴィンは私の頬を両手で包み込むように挟む。
「俺にはリーディアの本当の気持ちを聞かせてくれ」
「え?」
「騎士に戻れるのか? 君を捨てた騎士団にもう恩なんてないだろう」
アルヴィンは私の胸の内を見抜いていた。
私は怪我から目覚めた後、打ちのめされ、騎士団そのものに絶望した。
ギール家の顔色をうかがい、団長は私の負傷を含め、この事件そのものをなかったことにした。
王太子殿下という我が国の至高の存在が襲われたという事実を隠蔽し、正しく罪を問うことなく、戦った騎士に報いることもない。
これが国を統べる王の、正義を掲げる騎士の仕打ちだろうか。
私のために抗議してくれる者は誰もいなかった。
見捨てられたという思いと、騎士の理想という信念を打ち砕かれ、私が騎士として生きることは不可能だった。
私は全てを捨て、逃げるように王都から去った。
アルヴィンの囁きはこの上なく甘かった。
「もう表舞台に立つのが嫌なら、ここで待っていてくれても構わない。君の好きにしていい」
戦場において機運というのは、非常に重要だ。
本来、かなり劣勢のはずのスロラン軍が奮闘しているのは、「勝てる」という幻想があるからだ。
一方、南部は長く続く諍いに、南部全体が倦んでいる。
『戦いを終わらせる者』が必要だ。
強力な勝利の象徴が。
アルヴィンは私に全てのカードを提示して、それでも「逃げたい」と言えば、逃がしてくれる気らしい。
私が参戦しなければ、ゴーラン軍の損失が高くなるのは分かりきっているのに。
「……もしかして本当にアルヴィンは私を愛しているのでしょうか?」
「ここ数ヶ月ずっとそう言っているが」
「今ようやく実感しました」
私の心が決まった。
「戦場に行きます。リーディア・ヴェネスカは魔法騎士に戻りましょう」
「ほう?」
とアルヴィンが笑う。
私も笑いかえす。
爽やかな笑みではない。女性らしからぬ、熊みたいに獰猛な微笑みだ。
「やられっぱなしは性に合いません。王都の連中に目に物見せる良いチャンスです」
「そうだな」
アルヴィンは愉快そうだ。
「アルヴィン、あなたに感謝を。そして……」
私は跪き、アルヴィンに騎士の礼を執った。
「リーディア・ヴェネスカはアルヴィン・アストラテートに永遠の愛をお誓いいたします」
「リーディア?」
アルヴィンの深い海のような青い瞳が驚きに見開かれる。
その瞳に映る私は緊張しきっている。
当然だ。
このリーディア・ヴェネスカ、一世一代の。
「どうか私と結婚して頂けませんか」
――求婚である。