31.ベラフの冬 ブランデーケーキ
お酒は二十歳になってから。
ブランデーケーキはどの季節に食べても美味しいが、夜食にブランデーケーキを一切れ食べるのは私のささやかな冬の楽しみだった。これはアルコールを使った菓子なので、体が温まるのだ。
ブランデーケーキはまずパウンドケーキを作るところから始める。
材料は小麦粉、バター、砂糖、卵、牛乳。
ここまではごくごく普通のパウンドケーキの材料だが、牛乳を四分の一、ブランデーに代えて作る。
生地にレーズンやオレンジピール、クルミなど、刻んだドライフルーツやナッツを加えても美味しい。冬の時期は林檎の砂糖煮を入れるのもおすすめだ。
最初にバターを人肌に温めておく。
ボウルに卵を割り入れ、砂糖を加えて白くもったりするまでよく泡立てる。
振るった小麦粉を数回に分けて加え、泡を潰さないようにへらで切るように混ぜ合わせる。そこに牛乳とブランデー、バターを加えて混ぜる。ドライフルーツやナッツを最後に加えれば生地は完成だ。
生地を型に流し入れ、予熱したオーブンで四十分焼けば出来上がる。
「リーディア、大丈夫か?」
菓子工房にこもっていたら、アルヴィンが私の様子を見に来た。
この辺りは雪は少ないが、一度降り出せば海から来る北風が雪を巻き上げ、たちまち吹雪となる。甲板は一寸先も見えない白闇に包まれ、極めて危険だ。
この強風は冬の海面に立ち上る「蒸気霧」と呼ばれる白い湯気のような霧を運んでくることでも知られている。たとえ霧が遠くに見えていても、決して油断してはならない。
北風は昔から冷酷で激烈な破壊の神として畏れられてきた。その名の如く、冬の海を荒々しく支配する。
海が少しでも荒れる気配があれば、出帆しない。それが冬の海の常識だった。
とはいえ、冬は悪いことばかりでもない。
この冷たい北風のせいで、クラーケンは深海に潜って動かなくなるのだ。
アルヴィン達は今日の出航は見送って地上での作業に従事している。
鍛錬をしたり、会議に出たりと別段暇ではないのだが、私の様子を見にちょくちょく厨房にやって来た。
「立ちっぱなしは良くない」
と心配されてしまった。
「大丈夫ですよ。もう仕上げですから」
私は食品棚から昨日作ったパウンドケーキを取り出した。
それを見てアルヴィンは怪訝そうな顔で、今作ったパウンドケーキを指さした。
「それを『仕上げる』んじゃないのか?」
「通常はそうなんですが、私のやり方だと中までしっかり冷ました状態にしないといけないんです。温かいケーキって崩れやすいんですよ」
私はアルヴィンにそう説明した。
使うのは焼いてから一日経ったパウンドケーキである。
腹が重くなって、いっぺんに沢山の量を作るのが難しくなった。
そのため効率は悪いが、毎日少しずつ菓子を作ることにしている。
これは寒くてものが腐りにくい冬の良いところだ。
今作ったパウンドケーキ三つはもう少し冷ました後に、食品棚に入れ、明日仕上げるつもりだ。
一日冷ましたパウンドケーキにブランデーを塗っていく。
この時に塗るブランデーの量で『軽め』と『標準』と『強め』と味が変わってくる。
ほのかな香りが楽しめる『軽め』がパウンドケーキ一個につき、五十mlくらい。
香りとしっとり感がほどよい『標準』が百ml。
ブランデーがしっかり香る『強め』が百五十ml。
という具合だ。
私が作るのは、『強め』のさらに上の『しみしみ』である。
フォークを刺すとブランデーがじわっとあふれてくる『しみしみ』は二百mlものブランデーを惜しみなく使う。
実を言うと私は蒸留酒はあまり飲まないのだが、ブランデーケーキに限ってはブランデーがたっぷり入ったやつが好きだ。
「指示してくれれば俺がやるから、リーディアは座って見ていてくれ」
とアルヴィンが申し出てくれた。
後の作業は簡単な物なので、やってもらうことにした。
「じゃあお願いします」
ブランデーケーキの一般的なレシピは、焼き上がってすぐのパウンドケーキに刷毛でブランデーを少しずつ、何回かに分けてまんべんなく染みこませるというものだ。
この方法だと、時間をおいてブランデーを何度も含ませる必要がある。
実はこの染みこませる作業は結構難しい。素人がやりがちなのは、ケーキを乾燥させてしまうことだ。
そこで私はもっと簡単な方法でブランデーを染みこませることにしている。
まずパウンドケーキを食べやすい大きさにスライスする。
スライスしておくと、液体が染みこみやすくなる。
次にブランデーをスライスしたケーキが浸かる位の背の高い器に注ぐ。私はいつも口が広いビールのジョッキを器にしている。
パウンドケーキをスライスするまでは私がやったが、その後の作業はお言葉に甘えて、座りながらアルヴィンに指示を出す。
「トングを使ってスライスしたパウンドケーキをつまんでください」
「これか?」
と彼はトングを持ち上げた。
「そうです。そのまま、ブランデーにドボンと沈め、二秒後に引き上げます」
アルヴィンは愕然とした顔で私を振り返る。
「……それは大丈夫なのか? ケーキが駄目にならないか?」
「大丈夫です。恐れることはありません。というか、食べたことありますよね、『お客さん』」
アルヴィンとは元々宿屋楡の木荘の客と主人として知り合ったのだ。ブランデーケーキは宿で大人向けのデザートに出していたメニューだった。
このやり方だとパウンドケーキは崩れやすくなり、何より『しみしみ』しか作れないが、手間を掛けずにブランデーケーキを作ることが出来るので私のおきにいりのレシピだ。
アルヴィンは懐かしそうに頷いた。
「ブランデーケーキだろう? あれは旨かった」
アルヴィンは恐る恐るパウンドケーキをトングで挟み、ブランデーに浸していく。
この作業を繰り返し、パウンドケーキを密閉容器にぴっちり入れ直す。焼き型よりほんの少しだけ大きい密閉出来る器がベストだ。
ブランデーケーキの最大の敵は乾燥である。そのため乾燥しないよう、完全に空気を遮断するのがポイントだ。
ケーキはブランデー染みこませた後、『軽め』で三日、ブランデーの量が多いものは一週間から二週間、冷暗所に置いて寝かせる。
こうすることでブランデーのアルコールが生地に馴染んで風味が深くなるのだ。
作業を終えて、私は私とアルヴィンの分の紅茶を淹れた。
妊娠中は紅茶やコーヒーよりはハーブティーの方が体に良いらしいが、一杯くらいなら問題ない。
浸した後のブランデーの余りは濾して料理に入れてもいいし、紅茶に入れても美味しい。
「どうぞ」
私はアルヴィンの分の紅茶にだけ余りのブランデーを注いだ。
「ありがとう」
アルヴィンはカップを受け取った後、ふと私に聞いた。
「リーディアは、妊娠が分かってから酒は控えているな」
「そうですね。酒はあまり胎児に良くないそうですよ」
知っていてわざわざ子供に害がありそうなことはしたくない。
「せっかく作ったブランデーケーキも自分では食べられないなだろう。それは、いいのか?」
「なんですか? 急に」
「いや、俺だけ普段通りの食事で良いものかと悩んでいる」
とアルヴィンが言うので私は少し呆れた。
「あなたは体が資本なのでそれでいいんですよ。それに、食べるのは好きですが、私は私が作ったものを食べて喜んでくれるのを見るのも好きなんです」
料理人は皆そうだろう。
食べるのも好きだが、自分が作った料理を「美味しい」と言われるのが好きなのだ。
「そうか」
「本音を言うと飲みたい時もありますから、子供が無事に生まれた後が楽しみです」
「そうだな、一緒に飲もう」
アルヴィンは愉快そうに頷いた。
その後、彼は少し考え込むように黙り込み、真面目な顔で私に向き直る。
「この子の名前なんだが……」
子供が生まれる予定日は春の終わりだから、出産まであと三ヶ月。
そろそろ名前を決めてもいい頃だ。
「はい」
「俺達二人で決めようと思う。ただ、陛下からは内々に、男の子ならご自身の名前、アーサーを候補の一つに加えてほしいと言われている」
「フィリップ陛下が……」
フィリップ陛下の名は、フィリップ・アーサー・ヨアヒム・ラーダ。
最後のラーダは国王の姓だから、名前の部分はフィリップ・アーサー・ヨアヒムまでだが、ミドルネームの多さは、フィリップ陛下の複雑な出自に由来している。
陛下のご生母は元々隣国ロママイの王女で、フィリップは陛下の祖父がご生前に自分の名を与え、アーサーはご生母エヴァンジェリスティ妃が、そしてヨアヒムは妃殿下の父上であるロママイの当時の国王が名付けた。
名付け親はその子の後見人となるため、両国の国王が名付け親に名を連ねたわけである。
「『アーサー』は体が弱かったエヴァンジェリスティ妃殿下がたっての願いとして付けた名前で、陛下にとっては思い入れがある名前だそうだ」
母親が子供の名前を決めることはかなり稀だ。家長制度の強い高位貴族であればあるほどその傾向は強い。
だが、エヴァンジェリスティ妃は元々お体が弱く、フィリップ陛下のご成人までは生きられないと医師から宣告を受けていた。
アーサーの名は、フィリップ陛下にとって、亡き母親からの大切な贈り物なのだ。
「アーサー・アストラテートですか……。いい名前だと思います。アルヴィンは? どう思いますか?」
「リーディアが良いなら、候補に入れてもいいと思う。女児かも分からないしな。それと、南部のキラーニー伯の息子の名前なんだが……」
アルヴィンは微妙な表情でこっちを見た。
「?」
レファからの手紙では、「候補がいくつかあるので決まったら教えます」とまだ決まっていないようだったが。
「『アルヴィン』にしたそうだ」
「そうなんですか」
まったく予想もしなかったといえば嘘になる。
キラーニー伯は南部平定を助けたアルヴィンにかなり恩義を感じていた。
その感謝の気持ちと息子の健康と将来を祈って、『アルヴィン』と名付けたのだろう。
「アルヴィンは嫌ですか?」
質問するとアルヴィンは頭を横に振る。
「いや、嬉しくないわけではないが、面はゆい気がする」
「アルヴィンにもそんな普通の人間らしい感情があるんですね」
「どういう意味だろう?」
「『可愛いところあるな』ということです」
「褒めているのか、それは」
と言ってアルヴィンは笑った。
年中忙しいアルヴィンも、冬には少しだけ暇になる。
我々はゆっくりと午後の一時を楽しんだ。
――夫の側で産むのも安心出来ていいですよ。
紅茶を飲みながら、私はカシムのお母さんの言葉を思い出していた。
私は思いがけず出産間際までアルヴィンと一緒にいることになった。
確かに彼の側は、とても、安心出来る。







