12.ウォールナッツのシロップとパンケーキ
次に黒髪男がやって来たのは、山から少しずつ春の気配が感じられるようになってきた頃だ。
一度カランとドアベルが鳴り、
「いらっしゃいませ」
私はキッチンから入り口に向かって声を掛けたが、そこに客の姿はない。
「……?」
おかしいなと思ったが、入店の直前で思い直す客もいる。
さして気にせず、パンケーキ作りに戻った。
パンケーキの種を慎重にフライパンに落とし……。
「……主人」
勝手口が開いて、黒髪男とその部下の茶髪男が顔を覗かせた。
「入っていいか?」
「どうぞ、いらっしゃいませ」
「助かった。食堂は……入りづらい」
と黒髪男は気まずそうに、言った。
「あ、すみません」
我が家は最近、町では有名なデートスポットなのだ。
食堂は若いカップルでごった返している。
二十代後半男性二人組の騎士には少々、居心地の悪い空間と化していた。
街道にはプラタナスやアーモンドの木が植えられて、並木道になっている箇所がある。
春にアーモンドの花が咲くと見惚れる程の美しさで、この辺りでは名所として有名なのだ。
そのアーモンド並木の終着点に我が家があるため、最近になって若いカップルが店に立ち寄るようになった。
そこで若者が好みそうなパンケーキなどの軽食を出しているのだが、これが町で話題になったらしく、今では若者の定番のデートコースなのである。
卵に牛乳、砂糖、小麦をふんだんに使うので原価が高く、お一人様半銀貨頂いている。
これは若者にはかなり高価なはずだが、ウケている。
「やれやれ」
若者の熱気にあてられたらしい、黒髪男と茶髪男は辟易した様子でキッチンの椅子に腰掛ける。
「聞きたいことがあって来たんだが……忙しそうだな」
「はい、おかげさまで。ですが彼らは夕刻までには皆、町に帰るのですよ。デートですから」
時刻は昼過ぎ。今は賑わう店内だが、一時間もすればガラガラだ。
「そうか、待たせて貰って良いか?」
「キッチンで申し訳ないですね。何か召し上がりますか?」
「そのパンケーキというのを食べてみたいな」
と茶髪男が言った。
「パンケーキには『ふんわり』と『しっとり』、両方食べられる『ミックス』の三種類があります。初めての方には『ミックス』をおすすめしておりますが、そちらでよろしいですか?」
「あ、うん。ではミックスで頼むよ」
「私もそれがいい。だが、客の後で構わん」
と黒髪男が言った。
「はい、ありがとうございます」
パンケーキを焼く傍ら、チコリと生ハムのマリネサラダ、チーズとドライトマトのオイル漬けなど、黒髪達のつまみになるものをキッチンのテーブルに置くと、
「ソーセージも貰って良いか?」
黒髪男がいそいそと立ち上がり、隣の貯蔵庫から燻製肉を取りにいく。
持ってきたソーセージをミートフォークに刺して暖炉の火で炙り始めた。
「アルヴィン様、随分手慣れましたね」
茶髪男が黒髪男に言った。少し呆れ調子だったが、対する黒髪男は得意気だった。
「私がここに何度通っていると思っている?」
一時間後、ようやく最後の注文を終えた私は黒髪男達にふんわりとしっとりがそれぞれ二枚ずつ乗ったミックスパンケーキを焼く。
ふんわりの方は重曹を使ったパンケーキだ。
小麦粉とライ麦、それと重曹を混ぜ合わせ、そこに卵、ヨーグルト、牛乳、砂糖を加えてさらに混ぜ合わせると種は完成だ。その後、種をフライパンで焼く。
しっとりは重曹を使わない、いわば昔ながらのパンケーキだ。
材料はヨーグルトを抜き、重曹を林檎酵母に変えただけで、手順も大して変わらないのだが、前段階で数時間発酵させているのがポイントだ。
ふんわりは重曹効果で膨らむ。重曹を使う分、よく膨らんで食感が軽い。
しっとりは林檎酵母の発酵で膨らみ、ややモチッとした口当たり。
この二種類のパンケーキにバターとシロップを添えて完成だ。
黒髪男達はいい食べっぷりだった。
「旨いな。この『ふんわり』がいい」
「私は両方とも好きです。甲乙つけがたい」
「それにしてもこのシロップが合うな。森の滋味を感じる」
「ええ、シロップを味わうための食べ物です」
味の感想を言い合いながら、パンケーキを食べ終わると、黒髪男は言った。
「ところで……、あれは何をしているんだ?」
黒髪男の視線は、暖炉に向いている。
薪がくべられた暖炉の上には鉄の丈夫な台があり、そこには大きいのから小さいのまで大小様々なサイズの鍋がずらっと並んでいる。
山裾の我が家はまだ冷えるので、暖炉に火が着いているのはおかしなことではないが、その上に大小さまざまなサイズの鍋が所狭しとひしめいているのは、おかしい。
しかも鍋から漂う甘い匂いが我が家に充満している。
「あれは、樹液です」
「樹液?」
「採った樹液を煮詰めているんです」
我が家の周囲には森があるが、中でもそこに生えているプラタナス、クルミ、カバノキなどからは樹液が取れる。ものの本によるとカエデという種の木から甘く香りの良い樹液が採れるらしいが、我が国には自生していない。
樹液は雪が解けて、春になる間のわずかな時期に採れる。
この期間に木の幹に小さな穴を開けて、そこから滴る樹液をバケツで採取し、それを弱火でじっくり煮詰めるとシロップになる。
どのくらい採れるかというと、大体四十~五十リットルの樹液から、一リットルのシロップが出来る。
今はプラタナスとクルミの時期で、毎日五~六リットルの樹液が採れる。数日間煮続けるので、このところずっと我が家の鍋はフル稼働だ。
だが、樹液をそっと弱火で焦がさないように煮詰めるだけで、シロップが出来上がるので、ノアとミレイは大喜びしている。
「あ、ちゃんと私有地の樹液だけで作っておりますよ」
と指摘される前に私は自分から言った。
実はここの領主はシロップ作りを公には禁止している。
禁じているのには理由があり、樹液採りは木々に深いダメージを与えて、最悪木を枯らしてしまうこともあるそうだ。
ここは林業が盛んなので、樹液採りのために木が枯れてしまえば本末転倒ということでシロップ作りは禁じられている。
ただし私有林で樹液採取をすることは許されている。
黒髪男は「ハー」とため息を吐いた。
「こんなに旨いなら、樹液採りは領民にも許すべきだろうか」
「いや、それはどうでしょうかね」
と言ったのは私だ。
「自分でやっておいて何ですが、素人仕事で木に穴を開けるのは、良くないですよ。現行通りの禁止か、木こりなどの森に精通した者だけの許可制が一番望ましいんじゃないでしょうか」
樹液採りは木に四~五㎝ほどの穴を開けて、そこから人間でいうと体液である樹液を吸い出すのだ。人間と同じように開けた穴から雑菌に感染することもある。
特に私は本で読んだだけの素人だから、毎回、この作業が恐ろしくて仕方ない。
「手製の軟膏が効いているようなので少し安心ですが……」
と言い掛けると、黒髪男と茶髪男はハッと顔を見合わせた。
「主人、その軟膏について聞きたい、何をした?」
「はあ……」
何をしたって軟膏を作っただけである。
樹木に効くのか分からんが、何もしないよりはいいだろうと家にあるものを練って作った私のお手製だ。
領内で薬を売るには役場の許可が必要なので、売ってはない。ただ客にお裾分けしたことはある……。
「あ」
私は思い出した。
数日前にここにきた客のことだ。
砦の騎士らしい数名の男達だが、うち一人は大怪我を負っていた。
男達は砦からここまで馬車で彼を運んで来たが、やはり山道での移動が負担だったようで、少し休ませてくれとやって来たのだ。
もちろん、客室で休んで貰った。
包帯に血が滲んでいたので、新しいものに替え、ついでに男達に許可を貰って軟膏を塗った。
これだけ聞くと、一民間人のお手製の薬を塗らせる騎士達はかなり迂闊だとしか言い様がないが、彼らのうち数人が我が家の客で顔見知りだったことと、私がその時作ったのは、主成分が強薬草というすこぶる「効きそうな」薬だった。
なんで「効きそうな」かというと、まだ人体に使ったことが一度しかなかったからだ。
しかし傷の痛みに苦しんでいた怪我人が一塗りすると苦悶の表情を和らげたので、男達から「駄目元で塗ってみてくれ」と頼まれた。
鑑定が出来る魔法騎士が一行に混じっていたことも大きいだろう。
彼が、「本職の鑑定士ではないので良く分からないが少なくとも毒ではない」と言ったのと、山を下りたらすぐに医者に診せるという話だったので、塗ってみたのだ。
……だが、砦の騎士達の同僚である黒髪男達が来たということは……。
私はさーっと青ざめた。
軟膏が傷に障ったということか?
とんでもないことをしてしまったと私は、おそるおそる黒髪男に尋ねた。
「あの騎士に何かありましたか?」
「ああ……」
黒髪男はおもむろに頷いた後、言った。
「結論から言うと、とんでもないことが起こった」
銀貨一枚一万円くらいで計算してます。リーディアのパンケーキ、お一人様5000円です。
高いですよね!でも砂糖や小麦が高価だった頃なんでこれでも原価ギリギリのお値段だと思います。