【1】
『時を越えて』のシリーズ作。陽奈視点です。
「陽奈、パパ決まったから」
「あ、……うん。わかった」
父の転勤。
喜んであげなければ。優しい父のために。
頭ではわかっているのに、どうしても笑顔が作れない。
「ごめんね、陽奈。せめて小学校卒業まで待てたら良かったのにね。でも──」
「大丈夫! パパが名古屋行きたがってたの知ってるし。あたしずっと東京だったからちょっと不安だけど、すぐ慣れると思う。中学からいきなり知らないところ行くより今のほうがいいよ、きっと」
父の勤める会社は名古屋近郊に研究所がある。父は研究職で、当初から研究所勤務を希望していたのだそうだ。
その願いが、十五年も経った今になって叶う。
父が陽奈の友人関係や生活環境の変化を考えて、幼稚園入園以降は異動について迷った末希望を控えていたのも知っていた。
でなければもっと早く移れていただろうということも。
東京本社の研究部門で父のチームがそれなりの結果を出したこともあり、今望めば研究所に行ける可能性が高いのだという。
ただ、陽奈のためにこのまま東京に残るべきではないか、とこの状況においても考えてくれていたようだ。
「パパ、あたしなら大丈夫。もし名古屋行ったらもうずっとそこにいるんでしょ? だったら早いほうがいいよ」
両親の会話を耳にして、父の背中を押したのは陽奈の意思だ。
陽奈は小学五年生になってまだ三ヶ月。
もし父が職場を変わるなら、おそらく今年の夏だと聞かされていた。その通りになるのだ。
転校するのは正直嬉しくなどなかった。それでも、自分のために父に我慢を強いる気はない。
向こうが陽奈のことを考えてくれているからこそ、父のために協力できることはしたいと考えていた。
もし父が一方的に家族を従わせることしか頭にないような人間なら、おそらく反発もしたのではないか、とも。
両親は、せめて陽奈の小学校卒業までは父だけが移動先に、ということも考えていたようだ。
しかしあらゆる面で大変だろうことは子どもでもわかる。
一時的なものなら単身赴任もあり得るが、東京に「帰って」来ることはまずないのだ。
──家族がバラバラになるのは嫌。あたしがちょっと頑張ればいいだけ、だから。
陽奈の通う小学校は小規模で、一学年に二クラスしかない。二年毎にクラス替えはあるが、元が少ないので皆が友人のようなものだ。
その中で、五年生になってから急速に親しくなったクラスメイト。
教室で、落としたボールペンを拾ってもらった。「カッコいいな!」と褒めてくれた。それが、きっかけ。
その彼、……宏基との別れが何よりも辛かった。
こうなって初めて明確に自覚する。彼が好きなのだ。
きっと心の何処かにはあったその気持ちに、陽奈は改めて気付かされた。
◇ ◇ ◇
「ねえ、ママ。譲叔父さんにもらったあのペン、一本お友達にあげてもいい……?」
母の弟である叔父の譲に、海外出張の土産だと渡された色違いの二本のボールペン。
シルバーのボディにそれぞれブルーとピンクのストライプの、大人びたスタイリッシュな文房具だ。
外国の有名なメーカーの品で、子どもが持つものではなさそうなのもわかっていた。
宏基が格好いいと言ってくれた、あのペン。
「もちろんよ。……陽奈、先生には転校の手続きとかあるから明日ママから連絡するけど、お友達には自分で話す?」
「うん」
こんなものを渡したら困らせるだろうか。
けれど、せめて何かの繫がりが欲しかった。陽奈の気持ちの上だけでいい。……すぐに捨てられてしまっても構わない。
──だって引っ越したらもう会えないんだから。
今までに転校していった友人を見送ったことはある。
しかしその全員が首都圏、それも都内や神奈川、千葉だったため、休日に東京に遊びに来た彼女たちとは約束して普通に会っていた。
だが名古屋ではそうは行かない。
遠い街。新幹線で移動するような、旅行で訪ねるような、未知の土地。
女子の友人には、自分の口から転校について告げた。
皆が別れを惜しんでくれて、涙を滲ませる者までいた。
担任には、クラス全体に知らせるのは一学期の終業式の日にしてほしい、と母を通じて要請してある。
もうあと一ヶ月もない。
できれば終業式に新しい住所を周知できたら、と考えていたのだが、肝心の住まいがなかなかはっきりしなかった。
父の会社の社宅に入ることになっているのだが、どういう事情かはともかく複数ある社宅のどこに割り当てられるかが決まらないのだという。
ただ、転居作業に関しては会社がかなりの部分を負担してくれるらしく、両親はそれほど気にしてもいないようだった。
結局、父の異動は八月半ばで社宅もその直前まで待って欲しいとのことだったらしい。
そのため、終業式にクラスメイトに新しい住所を、というのは不可能だった。
友人たちには個別に知らせれば済むが、宏基に届ける術がない。もちろん彼にも直接知らせる方法はあるが、その勇気は流石になかった。
だからせめて、これを。
「小野寺くん、あげるからもらって。これ男の子みたいだから、あたしはピンクのだけでいいし」
終業式の日の帰りがけ。
何が何だかわからないといった様子で戸惑う彼に、有無を言わさず押し付けたブルーのストライプのボールペン。
勢いに押されたように受け取ってランドセルに仕舞った宏基の、「名古屋行っても元気でね」は単なる「しゃこうじれい」かもしれない。それでも「宏基から陽奈への言葉」に変わりはなかった。
さようなら、ありがとう。あたしの──。
彼との間に「特別なもの」などなにもなかった。単なるクラスメイトの一人でしかない。
それでも同じ町で暮らしていればいつでも顔を合わせて言葉を交わすことはできる。それさえもう叶わなくなるのだ。
ごく普通の毎日が幸せで満たされていたことを、失なうことになって初めて知った。
誰にも言えないけれど、本当は東京を離れるのが辛かった。寂しかった。
家族と、……両親と共にいたい一心で選んだ未来に、光など見つけられない気がしていた。