人生最良の日
ネイサンと義姉は、わたしを虐げ、貶め、蔑み続けた。
もっとも、それもヘラヘラ笑ってかわしたけれど。
とにかく、わたしは自由になりたかった。
一刻もはやく離縁してもらいたかった。
彼らは彼らで夫婦になり、愛し合うなりなんなりすればいい。
いつもいつも心の中で願うこと、祈る内容は同じだった。
『離縁して欲しい』
それだけだった。
「ああ、心配はいらない。おまえの行き先はちゃんとある。オーディントン国だ。あの悪党どもの首領に捧げてやる。伝統の生贄の復活というわけだ」
大階段の下、広いエントランスにいる多くの人たちから様々な声が漏れた。
その声のほとんどが、恐怖の叫びや同情の言葉である。
「知っているだろう? もともと悪党どもの集まりだった奴らの祖先は、あらゆる手で領土を広げ、ついに国を興した。それに飽き足らず、連中は周辺国を荒らしまわって生贄を差し出すよう命じた。怖れをなした国々は、定期的に生娘を生贄として差し出した。まるで子ども向けの話に出てくる魔物の話だな」
ネイサンは、大笑いしてから続ける。
「というわけだ。って、これでもまだおまえはヘラヘラ笑ってるのか? ほんとうに気味が悪いな。もういい。行け。その陰気なヘラヘラ笑いは、もう二度と見たくない」
彼は、唾を吐く勢いで言った。
だけど、この笑いはおさまりそうにない。
生贄だろうと人質だろうと、自由になれるのだ。離縁されたのだから。
今日は、最良の日。
最後にこれまでにないほどのヘラヘラ笑いを浮かべてみせた。
「ウッ」
そのわたしの渾身のヘラヘラ笑いに、ネイサンはおもいっきり引いた。
すこしだけ溜飲が下がった。
そして、意気揚々と大階段を下り始めた。
そのとき、エントランスから義姉が駆け上がってきた。
彼女は、控えめにいっても派手で美しい。今日もお父様かネイサンに買ってもらったであろうキラキラでセクシーなドレスにスタイルのいい体を包んでいる。
「道を開けなさい」
彼女は、わたしより数段下のところで立ち止まってわたしを見上げた。
「わたしが皇帝の正妃よ。わたしこそが、その座にふさわしい。無能で醜いおまえではなく、ね。無礼者っ、はやくそこをどけ」
ガラのあまりよくない義姉に怒鳴られ、慌てて横にずれた。
大人が三人並んでも上がれるほどのスペースが出来ている。
「このクズッ! はやく消えて」
そのささやきとともに、義姉はわざとわたしに近づいてきて左腕を伸ばしてきた。派手なマニキュアが施されている爪がわたしの右腕に食い込んだ。
「ちょっと、なにをするのよ」
彼女は、叫んだ。と同時に、わたしの右腕を力いっぱいひっぱった。
レディとは思えないほどのその力に、ひっぱられるままになる。
気がついたら、飛んでいた。ものの見事に。
「キャッ、この無能者がわざとぶつかってきたわ」
義姉の悲鳴が後頭部にあたった。
(ああ、なるほど。わたしがぶつかったふりをしているのね)
そんなことをしなくても、わたしはすでに負け犬なのに。
そんなことを思っている間でも、ふわりと宙に浮いた体が重力に従って落下していく。
「ああ、今日は人生最良の日だわ」
声に出して言ってみたつもりだったけれど、声はでなかったかもしれない。
そうつぶやいたとき、視界が真っ暗になった。