8.今はそれでいい
夕日がゆっくり沈んでいく。
王城の壁によってできた影が、徐々に角度を変える。
夜が近づく中で、私と殿下は二人きり。
庭園の木陰で肩を並べて座っている。
隣から殿下の呼吸音が聞こえる。
ゆったりと落ち着いた心臓の音も、かすかに耳に入る。
私は対照的にドキドキして、呼吸も早くなっていた。
仕方がないだろう。
こんなにも男性と近づく機会はそうなかった。
緊張してしまうのは当然だと思う。
「で、殿下」
「なんだ?」
「えっと、その……殿下は今日は何をされていたんですか?」
「普段通りだ。書類仕事に貴族との会合、遠征に出ていた騎士から街の現状の報告を受けたり、王城に寄せられる住民からの相談に目を通したり」
流れる様に次々と仕事内容が語られる。
私は聞いているだけで頭がパンクしてしまいそうだった。
「た、大変なんですね」
「これでも今日は楽なほうだったぞ。外へ出かける予定もなかったからな」
「そうなんですね」
知らなかった。
王子様ってそんなに毎日忙しいんだ。
私の勝手なイメージでは、優雅に好きなように一日を満喫しているものだと……。
なんて失礼なことを考えていたのか。
今さらになって反省する。
「お前のほうはどうだった?」
「あ……そうですね。私は……」
殿下の忙しさを聞いた後だと答えづらい。
今日一日、私がしていたことはというと……。
「特に何も……してません」
午前中はぼーっと部屋で過ごして、午後になってから散歩で外に出たけど、庭で眠って気づけば夕方になっていた。
なんて自堕落な生活なのだろう。
自分でも恥ずかしいくらい、何も得られない一日だった。
「浮かない顔だな。充実した一日ではなかったのか?」
「……なかった、と思います」
「どうしてそう思う?」
「え? だって、何もせず過ごしただけなので」
充実とは程遠いと思った。
すると殿下はクスリと笑い、優しい顔で私に言う。
「やっぱりお前は働き過ぎて、普通の考え方からずれているな」
「うっ……そ、その自覚はあります」
「いいかフィリス? 何もしないことは、必ずしも悪いことではないんだぞ?」
「そう、ですか?」
私は首を傾げる。
何もしないなんて、そんなの無意味な時間じゃないの?
そう思うからだ。
しかし殿下は柔らかく否定する。
「確かに何かを生み出すわけでもなければ、進めるわけではない。結果だけを見れば、自堕落に過ごした怠惰ともいえる。だが人間は、常に走り続けられる生き物ではない。毎日、一度も休むことなく走り続ければ、いずれどうなるかわかるか?」
「それは、もちろん疲れて倒れたりすると思います」
殿下は頷く。
当り前のことを口にして。
「人間は万能じゃない。どれほど優れた才能を持っていても、血反吐を吐くような努力をしても、肉体や精神には必ず限界がある。限界がくれば人は止まる。そうならないように休む時間が必要なんだ。適度に休み、次に動いたときに全力を注げるように」
「適度に……」
私にはその加減がわからない。
口を瞑り、視線を下方向でウロウロさせる。
「休み方がわからないか?」
「はい……」
「別に何もしなくていいんだぞ? それも一つの休み方だ」
殿下は指折り数えながら語る。
「一日中何もせずダラダラ過ごすもよし、気分転換に遊ぶもよし、新しい趣味でも見つけるもよし。身体の疲れをとる休み方もあれば、精神的な疲れを解消するものもある。何に疲れているのか、どこが疲れているのか次第で変わる」
殿下の話を聞きながら考える。
私の場合はどこが疲れているのだろうか。
漠然と疲れているとしか考えていなかったから、いざ考えるとパッと浮かばない。
「お前の場合は全部だな」
「ぜ、全部ですか?」
「ああ、心も体もボロボロだったはずだ。そういう環境に身を置いていたのだからな」
「ボロボロ……」
確かにその通りだった。
私の身体は、心はボロボロだった。
身体の節々が痛いし、心にも余裕がなかった。
そういう環境、休むことすら許されない日々を過ごしていた。
「疲れというのは蓄積される。一日の疲れがとりたければ、一日以上休むべきだ。お前の場合は何年分もの疲れが蓄積されている。もはや癖にすらなっている。一日一夜で解決はしないだろう」
「そう……ですか?」
「ああ。聞いたことがないぞ? 休み方がわからないなんてセリフを言ったのは、お前くらいだ」
「あ、あははははっ……」
私は笑ってごまかす。
自分の異常性を指摘されて、言葉も出ない。
「せっかくの機会だ。ここでゆっくりリハビリしていけ。お前が普通の感覚を取り戻せるまでな」
「取り戻……せるんでしょうか」
「さぁな。それはお前次第だ。お前が今の自分を気に入っているなら、無理に変える必要はないと俺は思う。どうなんだ?」
「私は……」
仕事に追われる日々から解放された。
ちゃんと休みも貰える。
でも、休み方がわからない。
仕事がないと、何かしていないと落ち着かない。
申し訳ないと思ってしまう。
そんな自分が好きかって?
深く考えるまでもない。
「変えたい、と思います」
「そうか。なら今はそれでいい。そう思えるだけでいい」
「……はい」
変えていこう。
この国で、私は普通に戻るんだ。