3.隣国の王子様
翌日の早朝。
結局一日じゃ終わらなくて、夜通し倉庫に籠って作業をした。
あれから一睡もできてない。
忙しかったからもあるけど、やっぱりショックが大きかった。
仮眠を取ろうと目を瞑ると、瞼の裏にあの光景が映し出される。
君との婚約を破棄する。
信じていた相手に裏切られた気分だった。
彼だけは、私の味方でいてくれる。
どんな時も、これから先も、彼が支えてくれると思っていた。
「仕方なく……だったのね」
そこに愛はなかった。
私からの一方的な思い、信頼しかなかった。
そう、彼はきっと悪くない。
私という婚約者がいながら、他の女性と親密になっていたことも。
全部私が悪いんだ。
わかっている。
わかって……いるけど……悔しい。
何より、その相手が彼女だったことが腹立たしかった。
彼女が優秀?
私と違っていい評判しか聞かない?
そんなの当然よ。
だって彼女の仕事量なんて、私に与えられている仕事量の十分の一もないんだから。
一人に与えられる適切な仕事量をこなしているだけ。
そんなのみんなやっている。
私はその十倍以上を一人で頑張っているのに、仕事が遅いとかサボっているなんて囁かれる。
理不尽だ。
日をまたいで寝不足も相まって、なんだかイライラしてきた。
私は早朝の誰もいない宮廷を歩く。
一度部屋に帰って休もう。
この時間はまだ誰も出勤していないから静かだ。
誰も……いない。
「はーあ、いっそ宮廷なんて辞めちゃいたいなぁ……仕事は無理やり押し付けられるし、いつもガミガミ言われるし、寝れないし……」
なんて、誰も聞いていないことをいいことに本音を漏らす。
これから先の人生、私は借金を返すためだけに費やすことになる。
そんなの……。
「嫌だ」
「――辞めたいなら辞めればいいんじゃないか?」
「簡単に言わないでよ。私の家には返さないといけない借金が……え?」
「そうか。借金が問題なのか」
誰かがいる。
思わず立ち止まり、声のした方向へ振り向く。
そこに立っていたのは見知らぬ男性だった。
気軽に話しかけてきたから知り合いかと思ったけど、こんな人は知らない。
「いいことを聞いたな」
「あ、あの……」
今の話を聞かれてしまった?
どうしよう。
思いっきり宮廷の悪口を言ってしまった。
ここにいるってことは、彼も宮廷で働く誰か?
今の話を秘書さん……いや、陛下の耳に入れられたら、私は間違いなくクビだ。
「い、今のは違いま……」
「違うのか?」
「……」
別に、クビになってもいいじゃないか。
私がここで働く理由は、一刻も早くラトラトス家に借金を返すためだった。
借金のある相手と結婚なんて、サレーリオ様に恥をかかせてしまう。
せめて正式な結婚まで返し切りたいと。
でも、その必要もなくなった。
急ぐ必要もなくなったのなら、のんびり返せばいい。
無理に過酷な環境で働くことも……。
「伝えたければ伝えてください。私は……もういいです」
「伝える? 誰にだ?」
「誰にって、秘書さんに……」
「なぜ俺がそんなことをするんだ?」
逆に質問を返されてしまった。
私は首を傾げる。
すると彼は小さくため息をこぼし、得意げな顔で言う。
「お前は勘違いしているようだが、俺はこの国の人間ではないぞ」
「……え?」
「見えないか? この紋章が」
彼は自分の服に刺繍された紋章を見せつける。
確かにこの国のものじゃない。
あれはたしか隣国の……。
「イストニア王国の……紋章?」
「そうだ」
「どうして隣国の方が、ここは宮廷ですよ? 勝手に入っちゃ……」
「無論許可は取ってある。というより、この国には客人として招かれて来たんだ」
客人?
宮廷に足を踏み入れている時点で、それなりの立場の人であることは間違いない。
隣国では名の知れた貴族の方?
でも、どうしてそんな人が早朝の宮廷にいるんだろう。
やっぱり不自然だった。
こんな時間に、職員すらまだ出勤していないのに。
普通の人じゃない。
もしかして、不審者かもしれない。
私は警戒心を高まらせて、後ずさりながらじっと彼を見つめる。
「何を逃げようとしているんだ?」
「うっ……あ、あなたが誰かわからないので一応……」
「なるほど。ならば先に名乗っておこう。俺の名はレイン・イストニアだ」
「イストニア……え?」
倉庫に閉じこもりがちな私でも、その名でピンとくる。
なぜならその名前は、隣国の名前にもなっているのだから。
国の名前が家の名前……つまり彼は――
「お、王族の方……ですか」
「ああ、そうだぞ」
「――も、申し訳ありません!」
咄嗟に私は頭を下げた。
隣国とはいえ王族の方に、私はなんて不敬な態度を取ったのだろう。
もはや罰は免れないと覚悟した。
「気にするな。俺も勝手に歩き回っているだけだ。それにここはお前たちの国だろう? そう畏まらずに堂々としていればいい」
「い、いえ……そんなことは……」
「特にお前は、もっと威張ってもいいと思うが? フィリス・リールカーン」
思わず顔をあげる。
私はまだ名乗っていない。
しかも家の名前まで知っている。
他国の王子様が、私のことをどうして?
目が合って、彼はニヤリと笑みを浮かべる。
「この国のめぼしい貴族の令嬢の名はすべて記憶している。俺の意志ではなく、父上の計らいだがな」
彼は大きくため息をこぼす。
「俺がここに来たのは、妻になる女性を探すためだ」
「え……」
「驚くか? まぁそうだろうな。なぜ他国の王族が、わざわざ自らの足で探しに来ているのか。答えは簡単だ。今の俺に、結婚する気などないからだ」
「どうして……」
「聞きたければまずしっかり顔をあげろ。いつまでも見苦しいぞ」
「は、はい!」
私はすぐさま姿勢を直し正面を向く。
殿下は小さな声で、よしと呟いて話し始める。