2.独りぼっち
聞こえた単語が脳内で再生される。
聞き間違い、だと思いたい。
私は顔を引きつらせながら、サレーリオ様に問いかける。
「え……っと、サレーリオ様? いま、なんと……」
「君との婚約を破棄したい」
二度目のセリフはよりハッキリと言い切った。
おかげで鮮明に聞こえて、もはや聞き返す必要もない。
信じがたくとも、真実が目の前にある。
「どうして……」
「……そうだね。理由はいくつかあるんだが、まず最初に、決定的な事実を伝えておこう」
「決定的な……」
事実?
「僕と君の婚約は、君のご両親が健在だった頃に結ばれたものだ。いわゆる政略的な意味合いで。君の家、フレリオス家が厳しい状況になっても変わらなかったのは、君のご両親との縁があったからに他ならない」
それは理解している。
私たちの婚約が、貴族間のつながりを強固にするためのものであったことも。
それを知った上で、私はサレーリオ様をお慕いしていたのだから。
「僕が君と婚約していたのは家の意向で、僕自身が理由じゃないんだ。もっとハッキリ言ってしまうと、僕は君を愛しているわけじゃない」
「――!」
わかっていた。
いや、わかってはいなかった……のだろう。
勘違いしていたんだ。
両親がいなくなり、貴族としての立ち位置もあやふやになった私と、今日まで変わらずに接してくれていたから。
元は決められた婚約でも、彼は私のことを本気で大切にしてくれているのだと。
そう思ってしまっていた。
ただどうやら、それは私の勘違いだったらしい。
ショックで全身の力が抜けそうになる。
だけどまだ話は終わっていない。
打ちひしがれる私に追い打ちをかけるように、サレーリオ様は続ける。
「でも僕は、ついに見つけたんだ。僕が本気で思える相手を、そう! 真実の愛を!」
「真実の……それって」
「紹介するよ。僕の新しい婚約者だ」
サレーリオ様が扉に向かって呼びかける。
誰かが中に入ってくる。
やめてほしい。
新しい婚約者なんて……そんな人を見てしまったらいよいよ立ち直れない。
目の前の事実が余計に現実味を増してしまう。
「こんにちは、フィリスさん」
「……レイネシアさん?」
彼女はニコッと微笑む。
「ああ、やっぱり顔見知りではあったんだね」
「ええ、同じ宮廷で働く者同士、職種は違えど顔を合わせる機会はありますわ」
レイネシア・ハイベル。
知らないはずはない。
彼女は私と同じ時期に宮廷入りを果たした人。
職業が魔導具師。
私より一つ下、十四歳という若さで宮廷入りした天才魔導具師……だった。
タイミングが悪かったんだ。
私が初めて宮廷付与術師になったことで注目され、彼女にスポットが当たることはなかった。
本来ならもっと評価され、周囲からも尊敬される存在になるはずだったのに。
必然、彼女は私のことが嫌いになった。
没落しかけの元名門貴族の令嬢、という肩書も気に入らなかったらしい。
働き始めてからずっと、私に対する嫌がらせをしていた。
「知り合いなら話が早いね。彼女が僕の新しい婚約者だ。僕は彼女と出会い、本当に人を愛することが何なのかを知った」
「私も愛していますわ。サレーリオ様」
わざとらしく、見せつける様に。
彼女はサレーリオ様にくっついて、色っぽい声を出す。
まさか、と思った。
けどこの勝ち誇ったような表情……間違いない。
彼女は意図的に、私からサレーリオ様を奪ったんだ。
「ま、待ってくださいサレーリオ様! 私との婚約はラトラトス公爵様との約束で、いくらサレーリオ様が新しいお方を見つけたと言っても簡単には――」
「もちろんすでに了承済みだよ」
「え……」
「君との婚約を破棄する理由はいくつかある。そう言ったはずだ」
彼は険しい表情を見せる。
まるで他人……知らない人みたいに。
「宮廷での君の評判をよく耳にする。期待されていた当初とは違って、今はあまりいい評判を聞かないよ」
「そ、それは……」
「納期はいつもギリギリで、一日中倉庫に籠って仕事をしている。婚約者である僕との時間も積極的には取れていない。正直言って、父上も困っていたんだよ」
「そんな……」
それは与えらえる仕事量が多すぎて一人じゃ……。
と、言い訳を漏らしそうになって、咄嗟に口を塞いだ。
今ここで言い訳をしても反論されるだけだ。
「それに比べて彼女は優秀だよ。悪い話を一つも聞かない。秘書からも聞いた限り、彼女こそ理想的な宮廷魔導具師だとね」
「そんな。私は当たり前のことをしていただけです」
「ははっ、それがすごいことなんだよ」
「ありがとうございます」
彼女は私に視線を向ける。
言葉には出さない。
けど、伝わる。
いい気味ね。
そう言っている目だ。
「他にもまだ理由があるが……もう十分だろう。それとも聞きたいかい?」
「……いえ」
「そうだろうね。じゃあ、君とはこれっきりになる。ああ、借金の返済は今後も続けてもらうよ。君と婚約が切れたことで、本来なら縁もなくなるはずなんだが……」
「サレーリオ様はお優しいですわ。フィリスさんも感謝していますよ、ねぇ?」
あなたに言われなくても感謝はしている。
けど、私の彼への思いは冷めきってしまった。
結局私は一人だったんだと思い知らされた。
「……話は終わりですよね。じゃあ……私は仕事に戻りますので」
「そうだね。さようなら、フィリス。今日までありがとう。どうか君も幸せになってくれ」
「……はい」
「それではフィリスさん、ごきげんよう」
二人は去っていく。
バタンと閉まった扉を眺めながら。
私は一人になった。
本当の意味で、独りぼっちになった。
ポツリ。
「あ……れ?」
ふいに涙が零れてしまった。
両親がいなくなったとき、私はもう泣かないと決めていた。
強く生きるしかない。
涙を流している暇なんてないと思ったから。
だけど無理だ。
そんな覚悟も揺らぐほど、私は何もかもを奪われた気分になっている。
気づけば瞳から涙が溢れでて、ぐしゃぐしゃになりながら仕事を続けた。