45.命名の試練 3
「アンゲリーナ!!」
フェイロンが立ち上がる。ミオンが振り向き驚いた顔をする。
「女官長の話と違うではないか」
道士たちがヒソヒソと話し合う。
アンゲリーナは金の柄杓を頭の上に掲げた。
すると、金の柄杓から北辰が飛び出して、天帝廟の天井に描かれていた星座図の北極星に収まった。
わっと声が上がる。
「先々代の皇帝が亡くなられて落ちてしまった北辰が戻られた!!」
白いひげを長く垂らした仙人のような道士が声を上げた。
「先帝によって壊されたジンロンの標が」
「現皇帝の治世が四神に認められたのだ」
アンゲリーナの周りに道士たちが集まってくる。
「試練を超え、北辰を持ち帰られた! 皇女アンゲリーナ殿下の誕生だ」
「いいえ! 北辰と試練は別問題です!!」
声を張り上げたのはミオンだ。
「いい加減にせよ、女官長」
窘めたのは宰相だ。
「いいえ! なぜ、金の柄杓などを持っているのですか? なぜ羽織っていたはずの着物を着ていないのですか? なぜ濡れているはずの裾が濡れていないのですか?」
矢継ぎ早にミオンが問う。通常の試練の場合、途中で水路を渡る。必ず足下が濡れるのだ。
「手首には数珠もない! 不正を働いた証拠です!!」
アンゲリーナに疑いの目が向けられた。
アンゲリーナは、足首から数珠を外して見せる。そこには五色の珠が輝いていた。
「数珠の色は正しいが、なぜか中に四神のお姿が見える……。こんな不思議なことがあろうか?」
道士が呟いたとき、アンゲリーナの持つ金の柄杓が金の龍に姿を変えて、アンゲリーナに巻き付いた。
「四神の意図を読み解けぬ者が道士を名乗るとは面白い世になったものだ」
金龍の言葉に、道士たちが一斉に跪いた。ミオンは驚きよろめいた。
「アンゲリーナは龍の声を聞き、北辰を取り戻した者。四神と金龍の名の下に、皇女アンゲリーナを玉女と認める」
ミオンはガクリと膝をついた。
皇女ばかりではなく、玉女としてもアンゲリーナが認められたのだ。
「玉女様……」
道士が呟いて、金龍は鷹揚に頷いた。玉女とは神の使いとなる女性のことだ。
「玉女であれば、試練の前に逆鱗を与えられていても不思議ではない」
白い髭の道士がそう呟いて、アンゲリーナの前に額ずいた。
「玉女アンゲリーナ様、我ら道士はその御心にお仕えいたします」
突然のことにオロオロとするアンゲリーナをフェイロンは抱き上げた。
そして無言でミオンを見た。
ミオンは圧死させられそうな程の眼力に総毛だった。
さすがに不敬で罰せられるわね。……でも、陛下の手で殺されるならそれでいい。
ミオンは小さく息をつき、跪いた。そして、白いうなじを自らさらし、額を床につけた。斬首を覚悟したのだ。
フェイロンは剣に手をかけた。カチリと音がして、鞘から出た剣が鈍く光った。多くの血を吸ってきた剣だ。
そのとき、フワリとアンゲリーナの端布がフェイロンの指先を撫でた。
フェイロンはハッとする。
左腕に抱えていたアンゲリーナが、フェイロンを見つめている。綺麗な濁りのない青空色の瞳はファイーナを思い出させた。その奥に煌めく虹色の光彩はキリルと同じだ。
この子が血で汚れるのは見たくない。
フェイロンはそう思い、剣から手を離し、アンゲリーナを両手で抱いた。
「追って沙汰を出す」
フェイロンはそれだけ言うと、アンゲリーナを抱えたまま天帝廟を後にした。
ミオンはその後、キリルとジュンシーによって今までアンゲリーナにしてきた罪を暴かれた。
そして、女官長の任を解かれ、罪人の焼き印を押された。焼き印がある者は、皇室が関わる行事や場所への出入りは禁止される。魔法の施された焼き印は、ときおり痛みをぶり返す。罪を忘れさせないためだ。
レアン一族からは、ナンラン国にリュウホを傷つけた謝罪として、宰相自らミオンを連れて謝罪に向かい、莫大な慰謝料を支払った。
そして、ミオンはレアン一族の領地へ送られることになった。
この程度で済んだのは、アンゲリーナの口添えがあったからだ。
フェイロンはレアン一族を断罪しようと気色ばんだ。しかし、アンゲリーナはそれをとどめた。
なにしろ、今までも多くの貴族官僚を処罰してきており、フェイロンの周りは常に人材不足なのだ。有能な宰相やジュンシーの代わりになる者はいない。
それに、ループ前はレアン一族に裏切られてクーデターが起きたんだもん。恨みを買って、クーデターになったら大変。
アンゲリーナはそう思い、寛大な処置を望んだ。
ミオンが領地に送られる日、アンゲリーナは最後に会いに行った。
ミオンが焼き印を押されたと聞き、さすがに不憫に思ったのだ。確かに、いくつかの虐待を受けた。ループ前には酷い目に遭った。しかし、ループ前の虐待は今のミオンの罪ではない。
アンゲリーナは、キリルやフェイロンに出会い、愛されたことで、今の人格とループ前の人格を同一視して恨むことができなかった。
癒やしの力で痛みを消してやれればと思った。しかし、ミオンはアンゲリーナの申し出を断った。
「皇女殿下にしたことを、皇后殿下にしたならばこの程度では済まされなかったでしょう」
ミオンは理解できないと言わんばかりの顔で答えた。
「とうたまは変わったんだよ」
アンゲリーナがそう言うと、ミオンはハッとして口元を押えた。
そしてマジマジとアンゲリーナを見つめる。黒い瞳が揺らめいている。いつもの嘘で塗り固められた美しすぎる微笑みはそこにはなかった。
「あの人が変わった……」
確かに以前のフェイロンなら、天帝廟でミオンを斬首していただろう。レアン一族郎党も、下手をしたら全員処刑されていたかもしれない。それほど苛烈な皇帝だった。
妻を奪われそうになったことをきっかけに、皇位を簒奪したフェイロンは、まるで雷のように激しく恐ろしく、そして美しかった。妻を失い、生きる目的を失い、冷酷さを増した皇帝は、遠い夜空の孤高の星だった。
でも、今は父になってしまったのね。
柔らかいまなざしでアンゲリーナを見るフェイロンを、ミオンは見たくなかった。皇帝の威厳を損ないかねないと、恥ずかしく、悲しく思っていた。
でも、あの人が本当に欲しかったのは、皇帝の地位などではなかったのよ。
ミオンの頬にほろりと一雫、転がり落ちるものがあった。
「皇女アンゲリーナ殿下、どうか、フェイロン皇帝陛下をお支え下さい」
ミオンは真摯にアンゲリーナを見つめ、深く深く頭を下げた。
「わたし、ミオンに教わりたいこといっぱいあったな」
「どうしてですか? 私はたくさん酷いことをしました」
「だって、後宮のことはミオンが一番詳しいもの」
アンゲリーナが当たり前のように口をとがらせていった。
その言葉で、ミオンは気がついた。ミオンが本当に欲しかったものは、妃の地位ではなかった。
ただ憧れの叔母のように、後宮で必要な者だと皇帝に認められたかったのだ。
いつから私はそれを忘れてしまっていたの。
どうしてこの子がこの言葉をくれるの。
ミオンの胸は苦しい。でも最後に欲しい言葉をもらえたことで、憑き物が落ちた気がした。
この子はまさしく玉女なのだわ。
「お困りのことがありましたら、手紙をお送り下さい」
「いいの?」
「私はどこにいても、これからも、ジンロン帝国の忠実なる僕です」
ミオンはそう言って、少し照れたように笑った。
その素朴な微笑みが、今までのどんな微笑みよりも美しく、アンゲリーナは少し悲しかった。