39.土砂崩れ 2
皇帝の執務室にはキリルとジュンシーが駆けつけていた。
「一刻を争う、至急、防壁を下げる。キリルは私といっしょに来い」
フェイロンは濡れたまま指示を飛ばす。
「ジュンシー、皇女殿下をお風呂に」
宰相の言葉でジュンシーがアンゲリーナを抱え上げ、天鉞楼を後にする。リュウホもそれを追いかけた。
「ジュンシー、おろして!」
「なりません。身体を温めて着替えをいたしますよ」
「まだだめなの。わたしもてつだうから!」
「皇女殿下はお休みください。後は我々に任せてくださればいいのです」
「でも、」
「大丈夫です。皇帝陛下と皇太子殿下がいらっしゃいます」
「ジュンシー、おねがいよ」
「なりません」
かたくななジュンシーにリュウホが立ちはだかる。
ピンとひげを前に向け、ガウと吠える。
咆吼は熱風となってジュンシーを襲う。ジュンシーはアンゲリーナを庇うように、背を向けた。
チリと髪が焼ける匂いがする。
たたみかけるようにリュウホがジュンシーに襲いかかる。
「どうしたんだ、リュウホ! どうして!?」
戸惑うジュンシーの隙を突き、アンゲリーナはジュンシーの腕から滑り降りた。
そのアンゲリーナをリュウホは背で受け取って、そのまま駆けだした。
(リーナ! 行き先を言え!)
「北斗苑と石竜山が接する防壁へ!」
(わかった!)
できるだけ早く防壁の魔法を解かなくてはいけない。
しかし、新しい防壁を作ることが優先され、魔道士たちはそちらに集められていた。
リュウホは雨の中を風のように駆ける。
アンゲリーナはリュウホの背にしがみついて、北斗苑の端を目指した。標樹を越え、土蔵を過ぎ、竹林を抜ける。
そこには壁らしき壁はない。地中に魔法具が等間隔に埋められており、見えない魔法の防御壁が作られているのだ。
この防御壁を壊すには、地中に埋められた魔法具を掘り起こし、魔法を無力化する必要がある。しかし、普通に掘り返せば、外敵だと判断され攻撃を受けるのだ。
アンゲリーナは恐る恐る防壁のあるだろうと思われる空中に手を伸ばした。
なにかに当たる感触がする。見えないが確実に壁がある。
アンゲリーナは、その見えない壁に指で魔法文字を書いた。
バチリと雨の中に火花が散った。
「いたっ!」
(だいじょうぶか!?)
指先が焼ける。アンゲリーナはとっさに指先をフゥフゥと吹いた。
「ちょっと強引だったけど、解除、できた」
地面のあちこちで、小さく煙が立っている。きっとそこに魔法具が埋められているのだ。
アンゲリーナは土を掘る。
そこには天使の守護印の書かれた、陶器の魔法具が埋められていた。
「リュウホ、魔法具を探してくれる?」
(任せろ!)
リュウホは煙の立ち上る場所を掘る。雨の中、オレンジの毛並みはびっしょりとぬれそぼり、お腹まで泥だらけだ。
アンゲリーナも必死に魔法具を掘り起こす。
そこへジュンシーが遅れて駆けつけた。数人の騎士や魔道士を連れている。
「なにをしてらっしゃいます!」
「北面の中央から両方に扇形に開いて、防壁を設置し直したいの」
「なぜですか?」
「そうして土砂を北斗苑で受け止める!」
アンゲリーナはできるだけ被害が広がらないようにと考えたのだ。
ジュンシーはしばし考え、頷いた。本当はアンゲリーナを連れ戻しに来たのだ。しかし、泥だらけになって必死に土を掘り返す姿に考えを改めた。
「騎士は魔法具を掘り出せ。魔道士は石竜山に向かって扇形に魔法具を配置し直し、配置が終わったら新たな防壁を張れ!」
ジュンシーの指示に、周囲は動き出す。アンゲリーナとリュウホも作業を続ける。
防壁が扇形に設置されたその瞬間、ピタリと雨が止んだ。
シンと静まり返る。
アンゲリーナは石竜山を見た。
ズルと地面が蠢いた気がした。
「っ! 逃げて!! 崩れる!! 崩れるわ!!」
アンゲリーナは叫んだ。
「紫微城、新しい北の防壁まで退避! 万が一に備えて北の防壁の守護を手伝う!」
ジュンシーの声で皆一斉に走り出す。
ジュンシーはアンゲリーナを抱え上げようとしたが、リュウホに奪われる。
(おれのが早い!!)
コロコロと小さな石が転がってくる。
雨の匂いを含んだ青臭い風が、石竜の息のように山から下りてくる。
遠くで枝の折れる音がする。
振り返らずに走る。
転がってきていた小石が段々と大きくなり、数が増え、不気味な音が背中に迫る。
土蔵を通り過ぎた瞬間、アンゲリーナはアッと腕を伸ばした。
「葛籠箪笥が!!」
(だめだ! 間に合わない! そもそも箪笥は動かない!)
リュウホの怒鳴り声に、アンゲリーナは歯を食いしばった。
アンゲリーナをずっと助けてくれていた葛籠箪笥だ。
「そんなっ」
リュウホはアンゲリーナを無視して走る。
標樹を目前にして、土埃がアンゲリーナに追いついた。
(ここまで来れば、とりあえず大丈夫なんだろ?)
リュウホが言って、アンゲリーナたちは振り返った。
もう泥の波が見える。しかし、アンゲリーナの後ろには、まだ魔道士が残っていた。
標樹まで間に合わない!!
アンゲリーナは両手を結び、祈った。
「金龍様、助けて! お願い!!」
右手の天使の守護印が光り、結び合った両手から光が漏れた。
ドウという音と共に、紫微城上空から大きな金龍が飛んでくる。
そして、アンゲリーナの前に鼻先を突きつけた。
「私を呼んだか。皇女アンゲリーナ」
「金龍様、金龍様、土砂がくる、魔道士が巻き込まれる!」
アンゲリーナの必死な言葉に金龍はズルリと向きを変えた。
土砂崩れと魔道士の間に身体を横たえる。
土砂が金龍の身体にぶつかる。金龍の身体は土砂に押されて、ズルズルと後退する。しかし、土砂のスピードが遅くなり魔道士は標樹を超えた。
おびただしい土砂が金龍を押す。その中にはアンゲリーナの住んでいた土蔵も含まれていた。葛籠箪笥が窓からはみ出た状態でいっしょに押し流されていた。
金龍が押し流され、標樹にぶつかる。
ホトホトと標樹の花が光りながら地面に落ちる。ミシリと不穏な音がした。標樹と土砂に挟まれ、金龍はたわんだ。金龍の身体を乗り越える寸前で、土石流が止まる。
音が止む。時が止まったように、誰も動かない。しばらくして、金龍がモゾモゾと動き出した。
「止まったの……」
アンゲリーナの声に、金龍は鼻先を寄せた。
「止まったぞ」
「ありがとうございます! 金龍様!!」
アンゲリーナは金龍の鼻先に抱きついて、スリスリと顔を寄せた。
「アンゲリーナ、撫でるならツノの間だ」
金龍はそう言うと身体を小さく縮め、ねだるように頭をアンゲリーナに向けた。
アンゲリーナは言われたまま、ツノの間をヨシヨシと撫でる。
「気持ちがよいな。お前の手は。……流石にこれは私も疲れた。少し寝させておくれ」
金龍は小さくあくびをすると、紫微城へ向かって飛んで行ってしまった。