32.父の帰還
皇帝フェイロン・シン・レイは、トンファンでの遠征に勝利し、帝都へ帰ってきた。
当初、制圧には時間がかかると言われていたが、金龍と天使が紫微城に現れた後は、怒濤の勢いで制圧し、当初の予定よりもずいぶん早い帰国だった。
特に、金龍の報告を受けた後のフェイロンの活躍はめざましく、ちまたでは、金龍と天使の加護があったのだと噂されていた。
城内に入ったフェイロンには、嫌でも天使の話題が耳に入った。
どれも好意的なもので、戦勝の祝賀ムードもあってか、皆、口が軽くなっているようだった。
皇太子が天使を発見し、保護したこと。その天使が、城内を歩き回り、身分の違いに関係なく皆に癒やしを与えていること。皇帝がいない紫微城内で、問題が起こらなかったのも天使のおかげだとまで言う者もいた。
もちろんフェイロン自身に直接言う者はいない。いなくとも耳に入ってしまうほどには噂になっていたのだ。
凱旋式後の戦勝祝賀会では皇太子キリルと久々に親子で並ぶ。
「天使を保護したのか」
父の第一声がそれでキリルは少し驚いた。
母を亡くしてからの父は、キリルと業務的な話はしても、キリル自身に関心を向けることはなかったからだ。
「はい」
キリルはアレを思い出し、思わず頬が緩んでしまう。
今アレはキリルの部屋で寝ている。夜も更けてきており、そもそも凱旋式に出られるはずもない。
フェイロンは思い出し笑いをするキリルを見て驚いた。
キリルもまた、母を失ってから自然な笑顔を失っていたからだ。始めの頃は無理に笑おうとしているのがわかり、痛々しかった。妻の面影の残る我が子のそんな顔を見るのが辛く、フェイロンはキリルを遠ざけてきた。
しかし、遠征から戻って見れば、キリルは自然と笑えるようになっていた。
これも、天使のおかげなのか。
フェイロンは、自分の剣に結びつけてあるアレからもらった端布を握りしめた。
キリルはフェイロンを窺うように見た。
「金龍と炎虎に守られた天使です。父上にも紹介したいのですが」
フェイロンはキリルをギロリと見た。
「お前が、私に、か?」
フェイロンは不快だった。自分の物を横取りされたような気分になったのだ。
そうして、それがいかに大人げなく不当な感情か、すぐに気がついた。
魔法文字を教える者として、アレは私を頼っていた。しかし、それが父だと知ったら、同じようにしてくれるだろうか。自分を土蔵に追いやった父など、きっと恨んでいるに違いない。
そうフェイロンは気がついたのだ。
キリルは萎縮する。失敗したと思った。それでもなんとか、アレを皇女として北辰宮に住まわせたい。
「わかった」
しかし、フェイロンはそれだけ言うと、黙り込んだ。
父上はお怒りではない?
キリルは意外に思いつつ、ここでこれ以上の話はすまいと決めた。
フェイロンは早く北斗苑に行きたかった。
北斗苑の標樹、アレと魔法文字のやりとりをしたあの場所へ行き、無事に帰ったと伝えたい。しかし、北辰宮にいるのなら、もうあの場所には来ないだろう。
フェイロンはそう思い、胸が痛んだ。
おかしい、遠征に行く前は、次に見かけたら斬るつもりでいたのに。それなのに、会いたいだなんて馬鹿げているではないか。
フェイロンは自分で自分がわからなくなっていた。
アレはリュウホといっしょに北斗苑の標樹に来ていた。
(なんの用があるんだよ)
リュウホが問う。
「あのね、リュウホに出会う前、ここに魔法文字を教えてくれる人が来てたの。会ったことはないんだけど、文字でね、教えてくれて。この間の遠征にその人も行ってたの。だから、今日、帰ってくるかもしれないから」
ループ前は、五百日戦争と呼ばれていた遠征だった。長く過酷な戦いが、ジンロン帝国を弱めたのだと言われていた。それなのに、今回は百日もかからずに制圧してきた。
歴史が変わってる? もしかしたら、この先も変えられる?
アレは少しの希望を抱く。
そして、帝国軍が勝利を収めたことで、騎士も無事に帰ってきたのではないかと思ったのだ。
キリルに用意してもらった便せんに、丁寧に手紙を書いた。
豆の形をした石の上に、その手紙を置く。
(ラブレターかよ)
リュウホは不機嫌に言う。
「そんなんじゃないけど。無事に帰ってきましたか? 私は元気です、って」
(『天使』ですって書いたか?)
「まさか!」
(会いに来てくれるかもしれないじゃん)
「北斗苑にいた私に魔法文字を教えたなんてバレたら、処刑されるかもしれないもの……。だからね、もう魔法文字はいいです、ありがとうございましたって書いたの」
しょんぼりとアレは俯いた。本当は一度会ってちゃんとお礼が言いたかった。
その視線の先に、黒いブーツのつま先が見えた。
アレは驚いて顔を上げる。
リュウホも毛を逆立てる。
(コイツ、ヤバイ! 気配がないぞ!)
リュウホが吠えた。アレはマジマジとその人を見た。
銀の長い髪が、夜の風に流れている。左側だけ下ろされた前髪。切れ長の瞳は氷河のように冷たく輝く。細い眉、細い顎、鼻筋もスッとして涼しげな男。アレは知らないが、ジンロン帝国皇帝フェイロンである。
白い着物には黄金の龍の刺繍。脇に差された黒い剣には、天使の守護印の描かれた切れ端が結びつけられている。
手は剣にかかっており、いつでも抜けるよう臨戦態勢を取っているようにも見えた。
「きし、さま、ですか?」
アレの問いに男は答えない。
「まほうもじをおしえてくれた……」
アレはそう尋ねた。
男はコクリと頷く。
「ぶじだったんですね! よかった!」
アレがパッと笑顔になって、闇の中に咲いた花火のような眩しさに男は怯み、一歩後ろに下がった。剣にかかっていた手がダラリと落ちる。
「あの、わたし、もう、ここにこれなくて、いままでありがとうっておてがみかいて」
アレは一生懸命に話しかける。
「リーナ……」
男が呟いた。
アレは意味がわからず小首をかしげる。
「アンゲリーナ」
男は今度はハッキリとそう言った。
アレは同じように呟く。
「アンゲリーナ?」
男はとっさに口元を押さえ、力なく膝をついた。
アレは目の前に跪いたフェイロンに、手紙を差し出した。フェイロンの手は、差し出された手紙を通り越し、柔らかな頬に触れようとした。
その瞬間、リュウホがその手を払おうとアレの前に躍り出た。猫パンチが繰り出される。抜かれた剣にリュウホの爪が当たり、キンと赤く光が爆ぜた。
男はリュウホを見て、残酷に笑った。そのまま斬るつもりなのだ。
リュウホはゾッとする。
(逃げろ、こいつ、ヤバイ)
野性的な危機感がリュウホを動かしたのだ。
「リュウホ?」
(ちゃんとつかまれ!)
リュウホはアレの襟を咥え、ブンと背中に投げた。
アレは慣れた様子でリュウホの背中にしがみつく。そのとき手紙がアレの手から離れた。フェイロンはその手紙を慌てて掴む。
リュウホは脱兎のごとく逃げ出した。
「どうしたのリュウホ!」
(あいつはだめだ、やばい。もう会うな!!)
フェイロンは去って行くアレを追わなかった。
ただ見えなくなるまで目で追っただけだ。
そうしてふたりが見えなくなってから、アレの手紙を開いた。
便せんから漂ってくる標樹の香油の香りに、フェイロンは目を細めた。
ファイーナ……。
もう凍りついたはずの心の奥に温かい灯がともる。恋しさと切なさが胸の奥で揺れる。
息をつけば、その灯がかき消えてしまいそうで、フェイロンは息を殺した。
たどたどしい文字。それでも遠征に行く前に比べてずっと美しくなった文字。三歳とは思えない手紙。アレの成長を前にして微笑ましく思う。
出会った頃は地面に枝で描いていたからしかたがないか。
そう思い、その状況へ追い込んだのが誰でもない自分だと自覚する。皇女でありながら、アレは自分のペンも紙も持っていなかった。
古布の切れ端に、草木の汁を使って指で字を書くほど、彼女は何も持たず、顔もわからない誰かに教えを請うほど学ぶことに飢えていた。
勉強道具を与えるなと命じたことはなかった。ただただ、関心を持ちたくなかった。いないことにしたかった。
私がそうすることで、あの子に何が起こるかまで考えられなかった……。
息が苦しくなり、指先が震える。フェイロンは大きく息を吐いた。人はそれをため息と言うだろう。鈍く痛む胸に、ジジと音を立てて黒い煙が立ち上る。肺が煤けて苦しい。
後悔、か。
フェイロンは鼻先に便せんを当てて息を吸った。
爽やかな香油の香り。妻に贈ったものだ。
黒い煙が薄くなる。
後悔してるなら、やり直せるわ。
ファイーナの声が聞こえた気がして、フェイロンは顔を上げた。
声だけで良いもう一度。
「ファイーナ。私は許されるのだろうか」
フェイロンの問いかけに、答える者はない。
標樹がチカチカと瞬いている。
許されるはずはない。
フェイロンは自分が何をしてきたのか自覚していた。自分が幼い頃、自らの父がしたことと同じことを娘にしたのだ。フェイロンの父は、なんの罪もないフェイロンを憎み、追いやった。その結果、フェイロンは父を殺した。
子どもは親を選べない。自分自身が一番知っておきながら。私が、同じ愚を犯した。殺されてしかるべき愚を。
アレと関わる前のフェイロンは、殺されるならそれもいいと思っていた。ファイーナを失い生きる気力を失い、なにもかもどうでも良かったのだ。
だからこそ、誰に対しても冷酷無残な態度がとれた。恨みを買うことは怖くなかった。
もちろん何度も殺されかけた。しかし、強すぎるフェイロンを殺してくれる者は現れず、今に至る。
私が父だと知ったら、リーナはガッカリするだろう。
あの青空のような瞳が、軽蔑の色を宿すところを想像し、フェイロンは身震いした。
そして、驚く。
まだ、怖いものが残っていたのか。
フェイロンは唇を噛んだ。手紙を額に宛て夜空を仰ぐ。目尻が熱を持ち、便せんの角が水に触れて夜が透けた。
心の泉は枯れ果ててなどいなかった。