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カナリヤの夜  作者: 千百
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最終話

 もしかしたらあの学生は、階上に女性が住んでいるとは思っていなかったのかもしれない。きょとんとこちらを見ている顔がおかしかった。テレビからは、この一週間はずっと晴れるでしょうというアナウンサーの生真面目な声が聞こえてきた。このあいだ梅雨に入ったばかりなのに、とつぶやきながら、ノエミはテレビを消して通勤用のカバンを手取った。


 なぜあの榕樹が骨の木とよばれるのか、ノエミはその後も長く知らずにいた。大人になってから、戦争が終わってしばらくの間、あの木の下には身元不明の死者のしゃれこうべがいくつも重ねられていたと知った。そのせいで骨の木と呼ぶようになったらしいが、祖母の話だと、当時はそこらの木の下に骨などいくらでも転がっていて、珍しくもなかったという。母がまだ赤ん坊で、祖母が若い母親だった頃の話だった。たまたまあの家の裏の木が、伐られずに生き残っただけということだった。


 部屋を出る寸前、鞄の中で携帯電話が鳴った。見てみると、昨晩無視した男友達からだった。ノエミは電話に出た。


「もしもし」


「ノエミ?昨日僕、電話かけたんだけど」


「そうなの?わかんなかった」


 ノエミはしらじらしく嘘を言った。電話口の向こうで、笑う気配があった。


「久しぶりに食事に行こうと思ったんだけど、どう?元気にしてる?」


「それはいいけど…昨日行くつもりだったの?あの雨の中?」


「雨?」


「さすがに怖かったわ。本当に、洪水になるかと思った」


「そうなの?こっちは全然降ってなかったけど」


 まさか、とノエミはなじるように言った。


「あの雨よ、気づかない人いたら相当よ。今どこに住んでいるの。国分寺?」


「国分寺?違うよ。虎ノ門」


「ふうん」


 ノエミは首をかしげた。だとしたら、昨夜のあの雨は、一体東京のどこに降っていたのだろう。あれだけひどい雨だったのに。だが男友達は気にも留めずに、のんきにノエミを誘っていた。


「で、どうする?今夜は平気?」


 今夜ね、とノエミは口の中でつぶやいた。もう、平日の夜の予定を気にする日々は終わっていた。ついさきほど、自分一人で終わりにしたばかりだった。ためらう必要はどこにもなかった。


「いいよ」


「よかった。じゃあ、職場まで迎えに行くよ。七時でいい?」


「そうだね。着いたら電話してくれる?」


「わかった。それじゃ、夜にね」


「うん」


 電話を切ると、彼の笑うと鼻筋にしわのよる横顔が浮かんだ。上背があって、わりに華やかな容貌なので一緒に歩くと人目を引いたが、どこか頼りないところがあった。それでいて、彼は時おり過剰なほどノエミを甘やかした。もしかしたら同情されているのかもしれなかったが、他人の親切の理由は、日頃からあまり考えないようにしていた。


 ノエミがこの友人と切れもせず続いているのは、ほんの時たま、まるで他人のような顔を見せる瞬間があるからだった。それは大抵の場合、彼がノエミに見られていることを知らない時だった。真顔で考えこんだり、ふとした時に目をふせる顔を盗み見るのが好きだった。そんな時、目の前にいるのは自分の知らない赤の他人だった。そしてノエミはそんな男友達を見て内心ほっとしている自分に気づき、何ともいえない不思議な気分になるのだった。




 外に出ると、すでに真昼のように蝉の鳴き声が高く、洪水のようだった。昨夜とはうって変わって、初夏らしい澄んだ空が広がっていた。あたりにはまだ誰もいないが、あと半時もすれば、人通りが出てくるだろう。雨に洗われた木々の緑が、雫を滴らせて輝いていた。蝉しぐれにかき消されているせいか、聞こえてくるはずの家々の朝の気配はまだ息をひそめていた。


 ノエミは公園を横切り、つつじの植込みの下をのぞいてみた。昨夜の手首は、もうどこかに消えてしまっていた。のぞいたものの、あのまま残っているなどとは思ってもいなかった。ノエミは身体を起こし、あらためてあたりを見回した。朝が早いせいか、人のいる気配はない。

その時、反対側の茂みの向こうに、昨夜の夜の鳥が立っていて、まっすぐにこちらを見つめているのと目が合った。ノエミは一瞬ぎくりとしたものの、そのくせ頭の片隅では、夜の鳥が確かにそこにいるのだと初めから分かっていたような気もした。だからこそ、誰かを探すように視線をめぐらしてみたのかもしれなかった。



 こんな朝は、何もかもが簡単そうだった。特に理由などなくても、どこまでも歩いていけるような気になれた。いやな夜は明けた。ただ、何度朝を迎えても、いつまでも自分自身を持て余しているだけだった。

 ノエミは夜の鳥にくるりと背を向け、大股で歩き出した。昨夜の雨をふくんで濡れている砂を、ヒール靴で踏みしめていった。目の奥が、薄荷を嗅いだ時のようにつんとした。蝉の声が鮮やかな空の青さに向かってひときわ高くなり、耳を聾すほどになった。


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