第六話
祖母の家にいた間、母は毎日朝早くから出かけ、帰るのはノエミが眠っている間だった。日中は、祖母と二人で過ごすか、近所の子どもたちにまざって遊んだ。ノエミが一人で外に出かけても、祖母は何も言わなかった。腹が空けば勝手に帰ってくると信じているらしかった。
ノエミはまた、家の裏に出て遊ぶことも多かった。家の裏には、骨の木とよばれている大きな榕樹があって、よくその下で泥遊びをしたり虫を取ったりして過ごしていた。祖母も母も、なぜこれが骨の木というのか、訊ねても教えてくれなかった。ノエミは子供心に、何かおぞましい理由があるような気がして得体の知れない不安をおぼえた。しかし同時に、ぞくぞくするような好奇心もあった。
ある日、いつものようにノエミは骨の木の下で遊んでいた。空は重い雲に覆われ、生ぬるい湿気をたっぷり含んだ重い風が、真横に吹いていた。台風が来るのだった。
あたりには誰もいないようだった。いつもなら、他の家の話し声や食事の用意の音がたえず聞こえてくるのに、何の物音もなかった。祖母も、朝から留守にしていた。町内に一人ぼっちで取り残されているようで、心細かった。ふきすさぶ風の音だけが通り過ぎていった。ノエミはしゃがんだまま、骨の木を見上げた。骨の木は風にしなり、濃い緑の葉がびょうびょうと細かくふるえていた。木の枝や幹は嵐の気配に興奮しているかのように、これまでに見たこともないほど白く浮き上がり、発光していた。血の気の失せた人の肌に似ていた。ふとノエミは、この木が骨の木とよばれていたことと思い出し、ぞくりとした。ノエミは弾かれたように立ち上がり、あたりを見回した。相変わらず、風が吹いているだけで誰もいないのだが、よく見ると道の先の曲がり角に、ひとつだけ人影がある。今思うと、それが夜の鳥であった。寒くもないのに大柄な身体に大きな外套をはおった鳥が、曲がり角に立ち、ノエミをじっと見つめていた。おそらく、今夜のように。
不思議と、怖さはなかった。夜の鳥は、道の向こうからノエミを見ているだけだった。ノエミは突っ立ったまま、夜の鳥と向かい合っていた。風はいっそう強くなった。榕樹のこまかな葉を震わせる風の音がどんどん高くなり、ついには耳を聾すほどになった。
夜の鳥は、まだ玄関の前をうろついていたらしかった。台所の窓の向こうで、大きな黒い影がのそのそと動いている。ノエミはベッド横になったまま、目を開けて動かずにいた。もう怖くはなかった。そのうち、ゆっくりと階段を下りていく靴音が響いた。夜の鳥は去っていった。
なんだか、ずいぶんと遠いところまで来たような気がした。骨の木の下にいたのも、放課後の薄暗い教室で終わりのないおしゃべりを続けていたのも、気が遠くなるほど彼方の出来事だった。何年も思い返すことのなかった、記憶の断片だった。この種の記憶はどれだけ時間が経っても決して消えることはなく、頭のどこかに辛抱づよくひそみ続けている。そして何かのはずみで浮かび上がっては、思いがけないほど心をゆさぶるのだ。
それはほんのふとした瞬間、自分でもわからないほどささいなことがきっかけになるのだった。わざわざ夜の鳥に出くわす必要などない。それはたとえば、駅のホームに降り立った時、見知らぬ人の香水が薫った時、そこにいるはずのないかつての知り合いに似た人とすれ違った時、いろいろだった。そして自分の意志などおかまいなしに脳が勝手にうごきだし、記憶の彼方の時間と今とを結びつけるのだ。
そんな時、ノエミはわずかな瞬間、十秒にも満たない短いあいだ、思い出の中の空気を呼吸することができた。それは淡く甘い懐かしい味わいの時もあれば、過ぎ去るのを待つしかない苦いあじわいのこともあった。
ノエミはベッドから下りて、窓を開けた。夜の鳥は、アパートの前の坂を青梅街道に向かってゆっくりと上っていた。濡れた背が、街路灯の白い光に輝いていた。坂の向こうには、西新宿のビルの群が雨に烟ってそびえ立っていた。赤いランプがゆっくりとまたたき、夜の中で孤島のように、ぼんやりと浮かび上がっていた。
窓を閉めて暗い部屋を見渡すと、他人の家のように映った。テーブルの上に置いたままになっている腕時計とイヤリングが、妙になまなましかった。知らない女性の持ち物のようだった。つい数時間前まで、自分があれを身に着けていたのだとは思えなかった。
あと数時間もすれば自動的に朝になり、また一日が始まる。いやな夜が明ける。
それが恩恵かどうかは、今はまだ考えたくなかった。