第五話
玄関のドアを叩く鈍い音に、ノエミは名を呼ばれた人のように素直に起き上がった。人が見ていたら、寝ずに待っていたと思うかもしれない。もういつからのことか思い出せないが、いやになるほどの寝起きの良さは、我ながら寂しい習慣の一つだといつも思っていた。意識が眠りから現実に戻るわずかな瞬間、今夜来るとは聞いていなかったという不審と、あの人のはずがないという、期待を押し殺すための牽制めいた思考が、同じ瞬間に閃いて消えた。ノエミはベッドの上で身体をかたくして、じっと息をひそめた。
もう一度、ドアがノックされた。ノエミは電気のひもに手をのばしてかけ、やめた。普通の来客なら、チャイムを鳴らすはずだった。酔払いか誰か、部屋を間違えているのかもしれない。人違いの客に、わざわざ中の人間が起きていることを知らせたくはなかった。
部屋は、狭い台所とガラスの仕切り戸で区切られていて、玄関は流し台のすぐわきにある。おそるおそるベッドから身を乗り出し、玄関を見ようとしたのと同じタイミングで、台所のすりガラスの窓から、人影がひょいと中をのぞきこんできた。ノエミはぎくりとした。明かりを消しているので外から見えるはずはないのだが、それでも身体がこわばった。人影はすぐに引っ込んだが、今度は大胆にもドアノブを回し始めた。もし鍵をかけ忘れていたらと思うと、足元がぱかりと開いた気がした。恐ろしくてたまらなかった。客人は、ドアが開かないと悟ると、もう一度台所の窓からこちらをのぞいてきた。そしてひどくゆっくりと左右に顔を動かし、じっくりと中をうかがっている。誰かがいるとわかっているようだった。
窓越しに、横顔のシルエットが浮かび上がった瞬間、ノエミは息をのんだ。それは、巨大なくちばしを持つ鳥の横顔だった。鳥はノエミの気配を感じたのか、ぴたりと正面に向き直り、じっと動かなくなった。
(夜の鳥だわ…)
長い年月を経て、夜の鳥が再びノエミの前に現れていた。
夜の鳥の噂を初めて聞いたのは、中学生の時だった。放課後の教室の終わりのないお喋りの最中、誰かが言い出したのだ。夜の鳥というのは、首から上が鳥の頭になっていて、真夏だろうとかまわずに黒い大きな外套を着ている。人混みや街中で、ふと視線を感じて振り返ると、この夜の鳥がじっとこちらを見ていることがあるのだという。そんな時、夜の鳥は自分以外の人には決して見えない。あたりの景色の一部にとけこみ、誰もそんな化け物の姿には気づかない。その時たまたま夜の鳥を見つけてしまった人だけに、見えているのだという。
女生徒たちは、神妙な顔でうなずきあった。怖い話とも言い切れず、なんといってよいものか、皆顔を見合わせている。昼に見ても夜の鳥っていうの、と誰かが言った。それが名前なのよ、と話を持ち出した子は声に微かな苛立ちをにじませた。ノエミは隣に座っていた友人に、変な話ね、とささやいた。友人はうすい笑顔を浮かべて、そうね、でも仕方ないわよね、とささやき返した。何が仕方なかったのだろう。夜の鳥か。それとも、陽が沈んでどんどん闇を濃くしていく教室の隅で、いつまでも他愛無い話に興じていることか。あの時自分の隣に座っていたのが誰だったか、どうしても思い出せなかった。
しかしノエミはこの話を聞いてからだいぶ後になって、自分はすでに夜の鳥を見たことがあったのだと思い当たった。高校に上がって古典の授業を受けている最中、唐突に、脈絡もなく記憶がよみがえった。良く晴れた、秋の日だった。
ノエミは小学校に上がる前、母と二人だけで祖母の家に長く泊まりに行ったことがあった。小さい頃の記憶だから曖昧なのだが、その思い出の中で、ノエミは祖母の家で誕生日を二回お祝いしてもらっていた。だから、二年間は祖母の家で過ごしていたことになる。なぜ自分と母はそんなに長い時間を祖母の家で過ごしたのか。父と姉はその時どうしていたのだろうかと、大きくなってからずいぶん不思議に思った。記憶違いかとも思ったが、祖母の家から母と帰るとき、ずいぶんと久しぶりに自分の家に帰ることに興奮し、市内に一つしかないデパートで、たくさんのお土産を買いこんだ。
しかしどうしてまたあれほど長い帰省をすることになったのか。長いこと気にかかっていたのだが、なんとなく誰にも訊ねないでそのままになっていた。
大学に上がってからようやく、ノエミは結婚して家を出ていた姉にその疑問をもらした。すると姉は意外そうな顔をして、あの時お母さんはあんたを連れて実家へ帰っていたのだと教えてくれた。何も知らなかったの、と姉は目を丸くしていた。ノエミもまた驚いた。
「私、二回はおばあちゃんの家で誕生日してもらってると思うんだけど」
「そうよ。私が中学入ってから二年の冬休みが終わるまでいなかったからね」
「なんでお母さんは実家帰ってたの」
姉は苦々しく嗤った。
「さあね。お父さんと暮らしてるのがつまんなくなったんじゃないの」
ノエミはこの時初めて、両親がかつて離婚の危機にあったことを知った。しかしこうしてみると、十年以上にわたって全く何も知らずにいられたというのは、明らかに不自然だった。父や母がわざわざ娘に聞かせるような話ではないだろうが、それを差し引いても妙なことに思えた。親戚の集まりにはこれまでだって何度も出向いていた。
そう考えると、ノエミの疑問に姉が驚いたのも、素直に信じていいものか疑わしくなってきた。その時は姉の言葉に納得したものの、後から思い返してみると、どこか片手落ちのようなざらりとした違和感が残った。