第四話
明かりを消してベッドに入った。雨は、さらに強くなったようだった。何だって、こんなに降り続けていられるのだろう。寝返りをうち、ノエミははたと、そういえば今日はまだ月曜日だったことを思い出した。だから昨日、母から電話があったのだ。鬱陶しい雨が降りに降って、それでいてまだ月曜日なのかと思うと、心底げんなりした。
日曜日の朝になると、母は必ず電話をかけてきた。老いた飼い猫の病気、婦人会のいざこざ、ご近所の誰が入院して誰が退院したかという噂話からテレビで仕入れた情報まで、母の生活は話題に事欠かなかった。聞いていると、都会に出てあくせく働いている娘よりも、よっぽど楽しそうだった。ノエミは毎週日曜ごとに電話を耳に当てて頷いているだけで、遠く離れた実家の事情に通じていられた。
昨日も母はきっかり朝十時に電話をかけてきて、ノエミが出るなり、そういえばね、と唐突に話し出した。聞くと、最近、目をこすると目頭から白い糸が出てくることがあるのだという。縫い物に使うような綿の糸で、引っ張るといくらでも伸びてくる。最初の内は好奇心もあってするすると指に巻き取って適当に遊んでいたが、何度も続くうちに、だんだん薄気味悪さの方がまさってきた。だからここしばらくは糸が出てくると、すぐに人差し指の関節に二周ぶんくらい巻き取り、裁ちばさみを出来るだけ目頭にひっつけて、糸の根元から切るようにしているのだという。ノエミはその話を聞いて、眉をひそめた。
「なんで裁ちばさみなんて使うの。危ないじゃない」
だって、と母が抗議した。
「糸だもの。裁ちばさみを使うにきまってるじゃない」
本当にそうだろうか、とノエミはベッドの中で寝返りを打ちながら疑問に思った。糸を切るのに、わざわざ布を切るためのずっしりした裁ちばさみなんて、持ち出すものだろうか。昨日の電話では、一応母の言い分に納得したものの、今になって考え直してみるとやはり変な気がする。しかし娘が何と思おうと、母は鏡台にかかった縁の錆びた大きな鏡を覗きこみ、目玉のすぐ真ん前に古い大きな裁ちばさみをかざし、得体の知れない糸を切る瞬間を、大きく目を開いて見ているのだ。
ノエミは呆れ、懇願した。
「病院に行ってよ。頼むから」
うーん、と母は大して困っているふうでもなく唸った。
「でも、糸が出てくるだけで、どうってわけじゃないのよ。切れば済んじゃうし。それに歳をとると、不調なんていくらでも出てくるもの。仕方ないのよ。そのたびごとに病院なんて行ってたらきりがないわ」
ノエミは天井に向かってぱちりと目を開けた。
母はああ言ったものの、目から糸が出てくるなど、不調の一言で片付けて済むものだろうか。ちょっとおかしくはないか。絶対におかしい。ノエミは枕に顔を押しつけた。葡萄の皮と種が自分で器のへりを乗り越えていくのと同じくらい、何かがおかしい。枕もとの時計を見ると、ベッドに入ってからまだ三十分も経っていなかった。母は確かに、不調と言っていた。不調、とノエミは声に出してつぶやいてみた。しかしその声も、すぐに外の雨音にのみこまれていった。
雨は弱まるどころか、いまや真夏の蝉しぐれさながらだった。このままでは、いずれ洪水警報が出るかもしれない。もしかしたら、知らないだけでもう出ているのかもしれない。すりガラスの窓の向こうの隣家の青白い光に、ひっきりなしに降り注ぐ雨がスパンコールのようにぎらぎら輝いている。ノエミはふと、そうだ私は帰ってくるとき、誰かの手が落ちてるのを見つけたんだった、と思い出した。その瞬間、ふさぐような気分の重さが一気に戻ってきた。
それに結局、今夜はあの後誰からも電話はかかってこなかった。先週あの人に会った時、確かに今夜会えると言っていたのだが、この雨でやっぱり家に帰ってしまったのだろうか。メールでも入れてみれば返信は来るかもしれないが、家族と過ごしている人の袖を引っ張るようなことは、意地でもしたくなかった。
ノエミはあきらめて起き上がると、電灯の紐を引いて明かりをつけた。そろそろ日付が変わる。どうせ明日も仕事なのだから、さっさと眠ってしまいたかった。ベッドを降りて、トイレに立った。
洗面台の鏡に映った顔には、天井の低いユニットバスの橙色の明かりの下、疲れの影が隠しようもなく刻まれていた。この顔で明日を迎えなければいけないと思うと、心底いやになった。ノエミは気休めに、濡らしたタオルで思い切り顔をこすってから鏡に顔を近づけて、ぎょっとした。
いつの間にか、右目の目頭から鼻筋の真ん中あたりまで、白い糸が無造作に垂れていた。これだったのか、とノエミは母の話を思い出した。そろそろと顔に指を這わせ、糸をつまみあげてみると、生ぬるく湿っていた。わずかに引いてみると、糸は何の抵抗もなく伸びた。このままいくらでも出てきそうだった。
(どうしよう。鋏がない)
引けば引いただけ、糸はするすると伸びてくる。母の言っていた通りだ。しかし、どうやってこの糸を切ればいいのだろう。途方に暮れた顔の自分が、鏡越しにこちらを真っ直ぐに見つめていた。