第三話
半分ほど食べ終えたところで、再び電話が鳴った。今度は、週末に会う約束をしている女友達だった。ノエミは葡萄を口に含んだまま電話に出た。
「もしもし」
「元気?もう帰ってた?ねえ、このあいだの人、どうしてるの」
彼女は有無を言わせぬ勢いで話し始めた。ひょっとしたら、この電話で時間をつぶすつもりかもしれなかった。
「このあいだの人って誰。あの、あんたが食事に連れてきた人のこと」
「そうそう。あの後も何度か会ってるんでしょう」
「話してても面白くなかったから、もう会わないことにしたの」
退屈な電話だと思った。女友達の言う「この間の人」など、もう顔も思い出せなかった。なぜ会うことになり、なぜ合わなくなったのかさえあやふやだった。女友達は悪びれもなく言った。
「あ、そうなの。じゃ、今度また別の人連れていこうか」
「いいよ、そんなの…」
それから、共通の知り合いの噂話が始まった。おしゃべりは、ノエミの予想通りあてもなく続いた。きっとこれから遅い時間の約束でもあるに違いなかった。月曜日から御苦労様なことですと腹の中でつぶやいた。
ぶどうを盛っていたガラス器のふちに、小さな羽虫が止まった。ノエミは何の気なしに指の腹でこすりつぶした。だが、見ると指先には何もついていない。
食べ終わったぶどうの黒い皮は、びっしりと器の底をうずめていた。蛍光灯の下で、それはぬらぬらと光っていた。すると器の中のぶどうの皮の一つが、かすかにふるえたように見えた。ノエミは目をこすった。電話の向こうでは、この後の予定に胸をふくらませた陽気な声が相変わらず続いている。
「そういえば、あさっての水曜日って空いてる?私は行けないんだけど、知り合いが飲み会するのに女の子一人欠けちゃったんだって」
気のせいではなかった。みるみるうちに、二粒の種がふるえる皮ににじり寄り、蠅の目玉のような具合でぴたりとくっついた。葡萄の虫はきょろきょろとあたりを見回した。すると、のこりの皮と種も共鳴したように一斉にぶるぶる震え始め、何匹もの虫がみるみるうちに出来上がっていった。彼らはいくどもガラスの壁をのぼろうと挑んでは器の底につるつるすべり落ち、のみのようなジャンプをしては、羽の具合を確かめている。ノエミは、痛いほど目を見開いてこの光景を見ていた。何か言わなくては、と頭の片隅でぼんやりと考えた。
「悪いけどいいや…わたし、平日は仕事遅いし」
いまやガラスの器の中では、ぶどうの皮と種でできた肥った虫が、重たるい羽音を立てて鈍く跳ね回っている。ノエミはうすら寒くなった。悪い夢を見ているようだった。ただ、見ていることしかできなかった。どうすればいいのかも分からなかった。
「もしもし、聞いてる?」
「え、ええ…水曜日は行けないの」
「それ聞いたわよ。だからさ、私もうそろそろ職場出るんだけど、土曜日はどこでご飯たべるかって」
「土曜日…そうね、どうしようか。まだ職場?一人なの?」
虫の一匹が、はずみでひょいと器のふちに乗り上がった。器の中の虫たちは、それを見てぴたりと動きを止めた。一瞬の静寂の後、虫たちは皆興奮して、前よりもいっそうやかましく飛び跳ね始めた。彼らにとって、器の外に出られるというのは大発見のようだった。女友達が、ふくれた声で何か言っている。
「そうなの。みんな帰っちゃって誰もいなかったから。こんな時間に一人で残されるのって、ちょっと嫌じゃない。電話しながら、帰る準備してたの」
ノエミはテーブルの上に置いたままの腕時計に目をやった。これから職場を出るとすれば、家に着く頃には日付が変わっているだろう。もちろん、帰るとすればの話である。彼女の性格から、こんな時間まで一人で仕事をするはずなどなかった。十中八九、これからどこかで誰かと待ち合わせているはずだった。もしかしたら、土曜日はその話を聞かされるのかもしれない。
「職場って駅から遠いの?どこで働いてたっけ」
「駅まで五分かかるかなあ…国分寺だけど、来たことなかった?」
ない、と答えようとして、ノエミは小さくあっと叫んだ。先ほど器のふちに乗った虫が、ひょいとテーブルに飛び降りた。そのとたん、虫ははじけて、ただのぶどうの皮と種にもどり、動かなくなった。器の底の虫たちは互いに顔を見合わせたが、次の瞬間、我先にと器のふちにのぼり始めた。
「国分寺…」
虫たちは、先を競って次々と器の外に飛び降りていった。蛍光灯の光の下で、ぬらぬらと光る皮と種がテーブルにつみあがっていた。何か言わなくてはと思うものの、頭の中は粥のようにどろついていた。
「今、まだ雨降ってる?私帰るとき、ひどかったけど…」
雨、という怪訝そうな声が問い返した。
「全然降ってないけど、こっちは」
ノエミは青ざめた。
ついに、最後の一匹が器の外に飛び降りた。すべての虫が器の外で息絶えていた。一体、目の前で何が起こっているのかわからなかった。ノエミは精いっぱい、電話の相手に向かってなんでもないふうな声を出そうとつとめていた。
「本当?こっちはひどいのよ。帰る時すごい濡れたし、今もまだ強くて…」
「そお?まあいいわ。もう駅に着いたから、切るわ。土曜日のことは、また連絡するから」
唐突に、電話が切られた。ノエミは、テーブルの上に撒き散らされた葡萄の残骸を、愕然と見つめていた。
(ガダラの豚)
ふと、そんな言葉が思い浮かんだ。そうだ、とノエミは納得した。何かに似ていると思ったら、ガダラの豚の話だ。病人に憑いていた悪魔が、イエス・キリストの力によって豚の群に乗り移り、崖から群をなして走り落ちて行く。
大学の授業で神父がこの箇所を読み上げた時、ノエミは隣にいた友人と思わず顔を見合わせた。いくら悪魔祓いといってもちょっとあんまりじゃない、と友人はノエミに耳打ちした。ノエミも、うんうんとうなずいた。前の席に座っていた友人がわざわざ振り返り、悪魔だけ追い払うわけにはいかなかったのかしら、豚の群が可哀そうじゃないの、と憤慨していた。隣の席の友人は、きっと当時は動物愛護の精神なんてなかったのではないかと生真面目に答えていた。
大教室のメインストリートに面したガラス窓のむこうは、鮮やかな黄色に染まったイチョウの木々が、遅い午後の光に眩しくきらめいていた。