第二話
ノエミはアパートのガラス扉に体当たりして、せまいエントランスに転がりこんだ。今にも切れそうな裸電球が、頭上でちりちりと音を立てている。羽虫が数匹、明かりの周りを飛び回っていた。ノエミは肩で息をしながら、しばらくの間息をととのえていた。全身が、水に浸かった人のように濡れていた。足元のコンクリートに、ぼたぼたと水が落ちてしみた。
顔を上げると、ポストから二つ折りにされたコピー用紙が突き出ていた。見ると、アパートの部屋七戸ぶん、すべてのポストに同じ紙が入れられていた。ノエミは自分の部屋の分の紙を取って広げてみた。入居の皆様へと宛書され、「注意」と赤い文字で大きく書かれているのが目に飛び込んでくる。
「注意。昨日未明、当アパートの住人が大騒ぎをしていてうるさいとの苦情を近隣の方より受けました。お心当たりの方は、今後お気をつけくださいますよう、丁重にお願い申し上げます。管理人」
文章はワープロ打ちされ、下に騒音に迷惑している様子のウサギの絵がプリントされていた。ノエミは、気味が悪くなった。うちのアパートは、一階だろうが二階だろうが、誰かが出入りすればドアの開閉の音が聞こえるので必ず気がつく。クレームを入れられるような騒ぎ方をすれば、絶対に分かるはずだ。橙の豆電球の下で、ノエミは足元に水たまりをつくりながら、茫然と立ちつくしていた。
アパートの管理人とは、一昨年前の入居の時に一度会ったきりだった。小柄な老人で、照りつける太陽の下で汗一つかかず、鍵の使い方やごみ捨て方といった注意事項を、抑揚のない声で機械的に喋った。お盆を過ぎた頃、八月の暑い日だった。ノエミは日傘を差し、その几帳面な説明にじっと耳を傾けていた。乾いた白い地面に落ちた自分の影が、いやに濃かった。
「大家はですね、私とはべつにちゃんといるんです」
と、その管理人は説明の最後に言った。そうですか、とノエミはいきなり話題を変えられたことに内心戸惑いながら答えた。
「そこの坂、青梅街道に向かって歩いていくと、右手にすごく大きな家があるのわかります?」
ノエミは頷いた。このあたりは大きな一戸建てが多かったが、中でもあの家はとりわけ大きい上に古く、高い塀からはみ出した木々が道に木陰を落としていた。家屋も木々のもとで薄暗く、ノエミはいた。家屋も木々のもとで薄暗く、ノエミは通りかかるたび、何となく誰も住んでないような気がした。管理人が何気なく言った。
「あそこに住んでらしたんですよ」
そして管理人は話を終えた。今は住んでいるのか、いないのか、どこにいるのか。分からないままだった。
その後、アパートの入り口にある小さな管理人室には人がいたためしなどなく、小窓には埃で灰色になったカーテンがぴったりと引かれていた。あの老人が、この奇怪なメモをポストに入れたのだろうか。ノエミの足元には、体中からぼたぼたと流れ落ちた雨水が、小さな水たまりを作っていた。
部屋の鍵を開けると、手に取れそうなひどい湿気が玄関までみっちりとつまっていた。雨の日は、いつもこうだった。畳の目は水気をたっぷりと吸って、半透明の幼虫のようにふくれた。そんな時に素足で部屋を歩くと、その虫をいちいち踏みつぶして歩いているようで、神経に触った。
着ていたものをひとまとめに洗濯機に放り込み、シャワーを浴びてようやく、多少はましな気分が戻ってきた。蛍光灯のどぎつい光の下では、ポストのメモも、先ほどまでの不気味さが褪せたように思われた。
だが、駐車場に落ちていた手についてはどうだろう。ノエミはテレビをつけてニュースを見てみたが、あの手に関係のありそうな事件はなかった。ニュースが終わると、すぐにテレビを消した。再び、雨音が戻ってきた。
あの手は、雨に打たれて腐っていく途中なのだ、とノエミは考えた。そして頬づえをつきながら、自分の右手をまじまじと眺めた。今になって、警察に連絡しなかったのは人道にもとるように思われてきた。
ノエミは顔を上げて耳をすませた。物音と思ったが、どうやら隣の部屋のテレビの音が、壁越しに聞こえてくるらしかった。近くに誰かいるのだと思うと、少し安心した。住人の誰一人として顔を見たことはなかったが、今日に限っては、一人ではないことに感謝の念が湧いた。
家に帰ってから今まで、窓ガラスには絶えず洗うように雨が流れ続けている。今さらもう一度外に出て、公園まであの手を確かめに行くつもりにはなれなかった。いっそのこと思い切って警察に電話をかけ、落ちていた手のことだけ伝え、名乗らずに切ってしまおうとも考えたが、うまくいきそうになかった。ああいうところならきっと、電話をかけた人間などすぐに突き止めてしまうのだろう。でも、もしあの手が発見されたおかげで何か解決することがあるのなら、とノエミはテーブルの上に置いていた携帯電話におそるおそる指をのばした。
その瞬間、携帯電話の着信を知らせるバイブレーションが響いた。ノエミはぎょっとして後ずさった。おそるおそる画面を見ると、男友達からの電話だった。昔から気兼ねなくつき合える友人だったが、どこか間の悪いところがあった。ちょうど今のような間合いで電話をかけてくるというのは、彼らしいと言えば言えた。
しかしノエミはむやみに驚かされたのが腹立たしかった。着信など聞こえないふりをして立ち上がると台所へ行き、冷蔵庫からパックに入った葡萄の房を取り出すと、水道から勢いよく水を流して洗った。
葡萄を器に盛って戻ると、電話は切れていた。男友達の呑気な笑顔が思い浮かんだノエミは。なんとなくばかばかしい気分になりながら、葡萄の粒を口に放り込んだ。皮と種は、別のガラス器に捨てた。口に含んでみると、どれもこれも酸っぱい粒ばかりだった。
半分ほど食べ終えたところで、再び電話が鳴った。今度は、週末に会う約束をしている女友達だった。ノエミは電話に出た。