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カナリヤの夜  作者: 千百
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第一話

 仕事を終えて外に出ると、思いがけず雨が降っていた。時計を見ると、とうに九時を回っている。本当なら、今日は食事の約束があったはずだったが、あっけなく流れた。ノエミは半ば自棄になって、あてつけるようにだらだらと仕事をしていた。タイミングよく手にしている傘は今夜会う人に返すつもりだったもので、先週からロッカーに入っていた。男性用のずっしりと重い傘で、柄を握りしめると湿気でぬめった。


 乗り込んだバスは、どぎつい白熱灯のもとで皆黙りこくっていた。サラリーマンばかりの乗客の中に、一人だけ乳飲み子を抱えた女性が座っていた。女性はうつむいていて、顔は陰になって見えなかった。


 バスの天井に、鈍い衝撃音が起こった。何かが落ちたような音だった。ノエミはぎょっとして上を見た。すると、もう一度同じ音があった。

 他の乗客は、誰ひとり顔を上げなかった。ノエミは少し恥ずかしくなって前を向いた。


 正面を向いたままじっと耳をすましていると、バスの上を誰かが歩き回っているらしい気配がある。おそらく、二人。ブレーキがかかると、足音の主は転ばないように慌ててたたらを踏む。静かな車内の中でけっこう響いているはずなのに、誰も気にもとめない。ノエミは嫌な気がした。足音は、ここまではっきり響いている。幻聴などではないはずだ。だが乗客は、誰一人気にかける様子もない。なんだか、たちの悪い冗談に巻き込まれている気がした。

 車内にこもった湿気はうっとうしく顔や背中にまとわりつき、汗で濡れたストッキングが気持ち悪かった。靴の中まで、水が染みていた。


 バスは靖国通りを走っていた。ノエミは何気なく窓から外をのぞいて、目に飛び込んできたものにごくりと息をのんだ。伊勢丹の石造りの壁面に、黒づくめの男が蜘蛛のように引っ付いている。しかも二人も。彼らはすごい速さで壁を這いながらのぼっていき、屋上まで上がって消えた。二人とも、いやに手足が長かった。心臓がどきどきした。


(何だったんだろう、今のは。泥棒かしら)


 いつの間にか、バスの上の足音は聞こえなくなっていた。



 中野駅に着くと、雨はさっきよりひどくなっていた。タラップを降りると、運悪く水たまりになっていた。おかげで、足首まですっかり濡れてしまった。ノエミは舌打ちをしながら傘を開き、足を早めた。濡れたアスファルトに飲食店のネオンが反射して、悪趣味に輝いていた。

 道路を一本越えると、途端に明るさは途絶える。車も、ほとんど通っていない。住宅街に入っても、どの家も明かりが消えてひっそりとしていた。聞こえるのは、雨の音だけだった。


 少しでも近道をしようと、ノエミは小さな公園を横切っていった。誰もいない暗い公園は、気持ちの良いものではなかった。足を早めたところでヒールが砂利につっかかり、ノエミは前につんのめるようにして転んだ。傘が、独楽のように落ちて転がっていった。

 雨はいよいよ強くなっていた。顔にも首にも、髪の毛がはりついていた。ぺったりと地面についた手のひらには、細かな砂利がめりこんでいる。ノエミはゆっくりと立ち上がった。

ここまで散々な目に合うと、かえって何も思わなかった。転がっていった傘を拾いあげようと腰をかがめたとき、つつじの植え込みの下に、人の手が落ちているのが目に入った。


 最初は見間違いかと思った。だが、確かに手だった。おそらく女性の、華奢な白い右手が、低いつつじの木の下で雨宿りをしていた。ノエミの視線に気付いたのか、手はかすかに後ずさった。そして、指をきゅっと丸めてじっと動かなくなった。ノエミは、おそるおそる手に近づいた。一歩、二歩。手は、つつじの葉の下でじっとしている。手首の断面にはビニールのテープがぐるぐる巻きにされて、銀色に輝いていた。

 どこかで見覚えがある。不思議な感覚だった。だがノエミは次の瞬間、血の気が引いていくのを感じた。


(この手は、私の手に似ている)


次の瞬間、ノエミは傘をひっつかむと回れ右をして公園を駆け抜けていた。

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