第八十一話
「・・・くそっ・・・!」
目を覚ました飛岩は慌てて飛び起きた。もう試合は始まってしまっているだろうか。急いで控え室の扉に手をかける。
ぬめり。妙な感触に彼は思わず手を離した。
(うっ・・・!これは・・・!?)
血だ。そのドアノブには血がべったりと付いていた。
ゆっくりと扉を開き外を確認する。そこで飛岩は凄まじい物を見た。
「・・・ああっ!」
そこには血溜まりが点々と、入場口の方へと続いていた。
「轟・・・お前は・・・!」
飛岩はリングへと急いだ。
「全く、なんて無茶をするんじゃ・・・」
満田が救急箱を開きながら言う。翠は何とか第1ラウンドを耐えきっていた。
「・・・大丈夫だ、あんな攻撃では俺はやられはしない。」
どうということは無い・・・そんな顔をしているが、彼の胸に刻まれた大痣はそのダメージを明確に示していた。
「よいか、今度こそ逃げ回って・・・」
しかし翠は満田の指示を拒否するように勢い良く立ち上がった。
「その必要は無い、このラウンドで決着を付ける。」
続く第2ラウンド、翠は宣言通り猛烈に攻め込んだ。荒々しく何度も攻撃を仕掛ける。
一方で、轟も反撃の手を止めない。何度も何度も翠の攻撃を喰らいながらも、怯まずに強引に強烈な一撃を返していく。
その拳は少しずつ翠を捉えようとしていた。
「な、これではあまりに翠君が不利ではないか!!」
満田が慌てる。それもそうだ・・・何をしても怯む事さえない轟と、一撃でも喰らえば致命傷となり得る翠。どちらが有利かは火を見るより明らかだ。
・・・しかし、満田と同じくセコンドにつく遠藤はたじろがなかった。
「いや・・・俺には分かったかもしれません、にーちゃんの策が・・・!」
ぶおん!またも轟の大振りが空を裂く。紙一重だった。翠はギリギリそれを避けた。
「・・・へっ、よく避けたじゃねえか。だが、これで終わりだぜ・・・!!」
叫びながら轟は拳を振り上げた。しかし・・・
ぴたり、突然その動きは止まった。
(うっ・・・!?馬鹿な、まだそんなはずは・・・。あまりにも早すぎる・・・!)
自身の体に起こった異変・・・。轟は経験からその正体に気付いていた。
5分ほどしか経っていないというのに、薬が切れ始めたのだ。
翠もまた、轟の動きが急に鈍くなったのに気付いた。
(・・・!ここだ・・・!!)
ジャンプしながら・・・その身を後ろに反らせる。
それは、追い詰められてからこそ生きる必殺の一撃。
普段の轟ならば・・・恐らくそれを回避できただろう。あるいは先にそれを放っていたかもしれない。だが、今の轟には決まった。
ばきっ・・・!!
鋭い打撃音が辺りに響く。
『出たァー!チャンピオン必殺のムーンサルト!!波風選手のお株を奪うような強烈な一撃だーっ!!』
実況の叫びに合わせ遠藤は興奮し目を輝かせた。
「やっぱりそうか!にーちゃんはこれを狙ってやがったんだ!!一発逆転のムーンサルトを!!」
「なんと!!」
満田もその隣で歓喜の表情を浮かべている。
「わーっ!やった!」
「流石だぜチャンピオン!!」
観客達も次々喜びの言葉を口にした。
だが、次の瞬間彼等は凍り付く事となる。
・・・ゆらりと、轟が立ち上がったのだ。
『な、なんと波風選手立ちました!!まさかムーンサルトさえも効かないというのでしょうか!?』
しかし、立ち上がった彼の様子は何処かこれまでと違っていた。
「・・・へっ、まだ・・・まだやれるぜ。」
意気揚々と翠に突っ込むが・・・そのパンチにはこれまでのようなスピードは無い。
(何だ・・・?何かを狙っているのか?)
戸惑いながらも、翠はそれを容易く躱した。
「・・・くそっ。」
何度も轟は攻撃を繰り出す・・・がやはりそれは命中しなかった。
「翠君!チャンスじゃ!!反撃を・・・!」
「・・・!」
満田に諭され翠は急いで蹴りを繰り出した。
ごきっ・・・!
容易く命中したそれにより、轟は吹っ飛んだ。
『なんと、波風選手2度目のダウンです!!これはどういう事か・・・?やはり先程のムーンサルトが効いていたのでしょうか?』
「ぐっ・・・この野郎・・・!」
息を切らしながら・・・轟は辛うじて立ち上がった。その額には大量の脂汗を浮かべている。見るからに辛そうだ。
その様子を見て翠は気付いた。
いや、翠だけではない・・・会場の何人かの人間は気が付いた。
「おい、もしかしてあいつ薬が切れてるんじゃないのか・・・?」
「・・・!そうだ、間違いねえ!ドーピングの効果は切れてるぞ!!」
「行け、チャンピオン!!奴が薬を補給する前にやっちまえ!!」
自然と沸き起こる押せ押せコールに、轟は苦笑いを浮かべた。
(心配するなよ・・・どーせもう薬の予備はねえさ。・・・それにやはり翠はとんでもねえ奴だった。ドーピングしてなお、俺と五分に・・・いや、それ以上の強さを見せてきやがった。ちくしょう・・・これで終わりなのか、もう打つ手はねえのか・・・。)
満身創痍、諦めさえ仄かに湧き上がる中・・・それでも轟はもう一度翠に向かっていった。大きく振りかぶり拳を振るう。
しかしもはやそれは攻撃と呼べるレベルの物では無かった。虚しく翠の横を空振り、反動で轟は転倒してしまった。
「ハッハッハ!ざまーねえぜ!!」
観客達の笑いが巻き起こる。
「轟・・・。」
対戦相手の翠さえも、同情の視線を送った。
(もう辞めるんだ・・・これ以上何の意味がある・・・。)
カァァン!!ここでラウンド終了の鐘が鳴る。
すると審判は急いで轟に駆け寄った。
「波風・・・大丈夫か、まだやれるのか?棄権するか!?」
「・・・。」
しかし轟は何も答えず、ふらーっと立ち上がり自身のコーナーへと向かった。誰もいない、一人ぼっちのコーナーへと・・・。
足が重い。目さえも霞んでよく見えない。コーナーまでの数メートルが果てしなく遠く感じられる。
(ううっ・・・駄目なのか、やはりどうしても翠には勝てないのか・・・っ!)
瞬間・・・轟は足を引っ掛け、つまづいてしまった。またもや転倒・・・そう思われた時、誰かが彼の体をがしりと支えた。
(何だ・・・誰だ、一体誰が・・・)
ゆっくりとぼやけた轟の視界がクリアになっていく・・・。するとそこには・・・
麗華がいた。
「麗華・・・お前・・・。」
「轟・・・何も言わないで・・・。今だけは私にそばにいさせて・・・君のセコンドとして付いてるから」
麗華はそう言いながら目を瞑り俯いた。きっとまた拒絶される・・・そう思っていたからだ。
だが、轟は掠れるようにこう返した。
「そうか・・・ありがとう。」
「・・・!」
麗華は目を潤ませうなづくと、彼を連れコーナーへと戻った。
その様子を、翠はじっと見ていた。
「どうした翠君!?早く戻ってくるんじゃ!」
「ああ・・・。」
満田に急かされコーナーへと戻る。
(それでも・・・勝ちだけは貰うぞ・・・!)
心の中で、彼は呟いた。




