第八話
土手に作られた粗末な練習場。そこでは深夜だというのに怒鳴り声が響いていた。
「馬鹿野郎!!もっと腰を屈めんか!!それじゃあ腹がガラ空きなんだよ!!」
怒号を飛ばしながら厳八が竹刀で突く。
「つっ!痛えな・・・なんだってディフェンスの練習ばっかやらせんだ。こないだの試合なら勝ったろうが。」
轟は脇腹を抑えながら不満そうだ。
「この野郎あんなのまぐれじゃねえか!!あんな守りを度外視した戦術が通用してたまるか!もう一度基本からやり直しじゃ。」
ぶん!ぶん!
ぎこちない轟の横で、翠が華麗なステップからの攻撃を意識した動きを繰り返し練習していた。
「見ろ、翠を。お前もちったあ綺麗な動きを真似せんか。」
「そりゃあよお・・・でもそこはスタイルの違いって言うか・・・」
ぎろっ!再び鉄拳制裁を加えんばかりの顔で厳八が睨みつける。
「わわっ・・・へへへっ、ちょっくら俺は走り込み行ってくるぜ。」
轟はたまらず逃げ出した。
「ったくあの野郎は・・・それに比べて翠、お前は優秀な生徒じゃ。ここまで攻守のバランスが取れる奴は上位ランカーにもそうはおらんて。」
「・・・。」
褒められたというのに翠の顔は浮かなかった。
「だが俺は・・・轟より弱い。」
「・・・何だと?この間の負けの事を言っているなら・・・」
「違う!それだけじゃない。・・・全てにおいて轟は俺より一歩先を歩んでいるんだ!」
突如声を荒らげた翠に厳八は一瞬目を丸くし、やがて視線を逸らした。
「・・・奴の言葉を借りる訳じゃないが、人にはスタイルっちゅうもんがある。奴は闇雲強引にでも突っ走るタイプ。そしてお前さんは堅実だが確実に一歩ずつ歩むタイプじゃ。焦る事は無い。」
「・・・だが・・・」
「・・・ここだけの話、単純な実力はお前さんの方が遥かに上じゃ。ただ奴にはちいとばかり爆発力があるからな。やたら目立って見えるだけじゃよ。先にチャンピオンまで辿り着くのは奴かもしれんが、先にチャンピオンになるのはお前だと思う。焦る事は無い、わしを信じろ。」
ぽんと厳八は翠の頭を叩いた。
「・・・わかったよ、オヤジ。」
ほんの少し、翠の胸は軽くなった。
「それで良い。そもそもお前さんが弱いはずが無いわい。何てったって・・・」
「・・・?」
きょとんとする翠に厳八は口をつぐんだ。
「・・・いや、何でもない。それよりあの不良生徒を捕まえてこんとな。お前は自主トレを続けておれ。」
そう言うと厳八は轟が走っていった方に消えていった。
翠はしばらく考え込んでいたが、やがて再びトレーニングに戻った。お手製のボロボロサンドバッグを打つ。
ふと、背後に人の気配を感じ振り返る。
「・・・これは練習中に失礼。なにせチャイムが見当たらなかったものでな。」
そこには真っ白い頭に真っ白い髭を携えた老人が一人。その姿にはどこか見覚えがある。
「あんたは・・・この前の試合の時、妙に俺の事を見てたな。」
「ほう、気づいておったとは流石の洞察力じゃな。・・・では話は早い。今日は君に提案があってきたんじゃ。」
ゆっくりと男は翠に近づくと、話始めた。
「儂の名は満田源三郎、満田ファイターズジムのオーナーをしている。この間の君の試合を見てピンと来てな。・・・どうかね、君は儂のジムへ来てみる気は無いか?」
妙な提案に翠は眉を顰めた。
満田ファイターズジム・・・世俗離れした翠でもその名前位は聞いたことがある。最新鋭のトレーニング設備に数多の実績を持つコーチ陣を抱えた世界でも有数のセレブジム・・・。ファイターなら誰しも生唾モノの環境で練習に励めるとか。
だが、翠はぷいとそっぽを向いた。
「・・・断る。形だけ整えたお上品なジムで実力が伸ばせるとは思えねえからな。」
正直興味が無い訳ではなかったが・・・彼は誘いを一蹴すると、サンドバッグ叩きに戻った。
「ふむ、過酷な環境に身を置く事こそ己を精進させる道だと言うのかね・・・随分と前時代的な考え方のようじゃな。」
「ああ?」
翠は苛立ったようにぎろりと鋭い視線を満田に向けた。
「・・・いや、別にそれを悪いとは言うまい。だがな、例えばそのサンドバッグ一つとってみても・・・君は本当に本気で打ち込めているかね?」
「何だと?」
「気づいてはいないのか。何度も修繕した跡があるだろう?さっきから君はそこを避けて打っておるぞ・・・。きっと君は君の所のコーチに遠慮して、知らず知らずの内にサンドバッグを庇うような打ち方になってしまったのだろうな。」
「・・・!」
確かに・・・自分や轟がサンドバッグを叩き破る度、厳八が夜な夜なそれを修繕しているのは知っていた。
「・・・このままでは宝の持ち腐れじゃ。然るべき環境に身を置けば、君は必ずトップランカーに・・・いや、チャンピオンにすらなれる。」
僅かにだが、翠の心に惑いの念が生まれた。
「・・・その話、轟やオヤジも勘定に入っているのか?」
「轟・・・?ああ、あのもう一人の少年か。・・・いや、この話はあくまで君だけじゃよ。正直言って彼にはそれほど才能があるようには見えなかった。あのコーチも然りじゃ。」
「・・・。そうか。じゃあこの話は無しだな。俺はこの野外オンボロジムでオヤジとともにてっぺんを目指すと誓ったんだ。・・・帰りな。」
「し、しかしだな・・・」
「くどいぜ!ぶっ殺される前に消えろ!」
叫び身構える翠に満田は堪らず身を翻した。
「分かった・・・しかし何も答えを焦る必要は無い。是非ともじっくり考えてみてほしい・・・」
まだ言うかとばかりの翠のキッとした鋭い視線に満田はいそいそと引き返していった。
一人残った翠はぼんやり立ち尽くす。
「・・・。これでいい、これでいいんだ・・・。」
言い聞かせるように呟くと、彼は再びがむしゃらにサンドバッグを叩いた。それはあっという間に引き裂け、ザザザと辺りに砂を撒いた。