第六十四話
「・・・っ!」
麗香は攻撃を打ち込まれるのを覚悟し目を瞑った。
・・・はらり。
その瞬間、突然麗香は自身の体が自由になるのを感じた。・・・見ると、翠はその拳を開いている。握っていた糸を離したのだ。
(え・・・?あ・・・。そうか、そういう事なんだね・・・。)
麗香は全てを察した。この誇り高き相手は動けぬ自分に手を出すつもりは無いというのだろう。
力だけで無く、テクニックや冷静な判断を下す頭脳を持ち・・・フェアで気高いファイトをする。
これが・・・チャンピオン・・・!
彼女はその崇高さをこれでもかと味わった。
「完敗だよ・・・私の負け。」
そう言うと麗香は背を向け静かにリングを降りた。
『え・・・な、なんと凍城選手棄権です!!リングを降りてしまいました!・・・勝ったのはチャンピオンです!!』
「・・・はあ!?」
「ふざけんなー!八百長じゃねえのか!!」
突如終了した試合に何も知らぬ観客達は不満そうだ。
「へん、馬鹿共が。ありゃあ完全に翠の勝ちだぜ。・・・あのやろ、やっぱりとんでもねえ奴だ・・・。」
1人、轟だけは満足気に笑った。
『これは皆さんの声にも一理あるかもしれません・・・今井さん、一体どういう事なのでしょう?』
『・・・さあ。ただ、彼等がどちらも超一流の天才ファイターであるのは間違いないですからね。何か我々の知り得ぬ所で激しい攻防があったのやもしれません・・・。』
解説の今井は深々と言った。
怒号や困惑の声が飛び交う中、満田は翠の肩にタオルをかけた。
「ふむ、何はともあれお疲れ様じゃな。・・・翠君?」
翠はじっと麗香が消えた入場口の方を見ている。
彼の中には、試合が終わっても冷めやらぬ思いがあった。
いやもっと前だ、彼女を初めて見た瞬間から・・・胸の中で何かがうずめいている。
死闘が始まってなお・・・時間が経つにつれそれはどんどん増して行っていた。
「すまない会長、後を任せてもいいか。・・・ちょっと彼女の控え室に行ってくる。」
突然の翠の言葉に満田が目を丸くする。
「・・・な、何じゃと?どういう事だ翠君。まさか彼女に惚れた訳でもあるまい。」
ほんの冗談だった。このクールなチャンピオンにそんな事が訳はあるまい。だが・・・
ぴたり。その言葉にリングを飛び降りようとした翠は足を止めた。
「・・・なるほどな、そうかもしれない。俺は彼女に一目惚れした。」
自身の中のモヤモヤに納得すると、翠は駆けていった。
当然、翠とて轟と同じく女と関わりがあった訳では無い。美しい麗香の容姿に惹かれる事もあるだろう。・・・だが、それ以上に彼女とあれ程のファイトを繰り広げたのだ。それは千の言葉以上に雄弁に、翠に彼女の魅力を知らしめたに違いない。
「おい、今の聞いたかよ。」
「本当なら大スクープじゃないか!」
前列にいた客達にもその会話は聞こえた。
そして、話はあれよあれよと会場中に伝播していく。
気付けば、八百長騒ぎなど何のやら・・・チャンピオンの色恋沙汰に皆が湧き上がっていた。そしてそれは後ろの方にいた轟にまでも伝わる。
「なっ、嘘だろ!?翠の野郎本気で・・・やべえ・・・!」
話を耳にした轟は慌てて客席を駆け下り・・・麗香の控え室へ向かった。
あのファイトを通じて麗香も翠がどんな男か十分に知っただろう。もし翠がその思いを告げれば・・・拒否するはずがない。
急いで止めなければ・・・。
しかし、轟はここで足を止めた。
(行って・・・それでどうするんだ?『やっぱり、この翠ってのはとんでもなく悪い男だからやめとけ!』とでも言うのか?)
今更そんな言葉を言った所でどうにもならないだろう。それに、よく考えてみれば・・・元々麗香にはその方が良いのだ。実力にムラがあって・・・金も無ければ柄も悪い自分といるよりも、真面目で人々に慕われるチャンピオンである翠と居る方が・・・。
「そうだ、そうするべきなんだ・・・」
何度も自分にそう言い聞かせながら、轟は道を引き返した。
・・・その日の深夜、橋の下へ戻った轟はいつまでも寝ずにいた。
膝を抱きながらぼんやり夜の空を写し漆黒に染まった川を見る。
「・・・。」
もう彼女が来る事は無いのは分かっている。
では自分は何故こうしているのだろうか・・・。
がさり。
ふと斜め後ろで物音がするが彼は振り向かない。
・・・がさがさどさどさどさ。
数秒続く落下音に流石に今度は振り返った。
「お、お前・・・麗香・・・!」
「ふふっ、こんばんは轟。試合見に来てくれた?頑張ってたでしょ?」
麗華が大量の石ころを抱ながらそこにいた。・・・思いがけぬ訪問者に轟は勢い良く立ち上がった。
「ああ・・・つうか何でここにいるんだ!?翠はお前ん所に来なかったのか?」
「来たよ。・・・それで多分、告白された。・・・断っちゃったけど。」
麗香はしれっと言った。
「はあ?何で・・・だって翠は・・・すげえ男だっただろ?」
「うん、そうだね。強くて優しくて・・・普通はあれ以上に良い人は他にいないと思う。・・・でもね、私にはいたんだ。最高のチャンピオンと会ったからこそ、それに気付くことができた。」
「何言って・・・どこにそんな野郎がいるってんだよ。」
すると麗香は少し離れてからこちらを振り返った。後ろから月に照らされるその姿は、轟に初めて会った日の事を思い出させる。
「・・・ふふっ、それはね・・・君だよ、轟。」
「・・・!」
それは、衝撃の言葉であった。
「完璧じゃなくたっていいんだ。強くなくて、言葉遣いが悪くても・・・上手く言えないけど、君といる時に感じるこの気持ちが・・・好きってことなんだと思う。」
思いがけぬ告白に、轟はただただ固まるだけだった。
女というものは本当に訳が分からなかった。
「一生懸命トレーニングに励む君が好き、辛辣な冗談を吐く君も、寂しそうに川を見つめる君も・・・」
じっと、麗香はその大きな目を轟に近づけた。
瞳に飲み込まれてしまいそうだった。心ごと・・・。
「・・・けっ、訳わかんねえ・・・ふっ、全くよ・・・なんだよそれ。へへっ、へへへっ・・・!」
「・・・ふふっ・・・!」
堪らず吹き出した轟に、麗香も釣られて吹き出した。
2人は暫く、壊れた様に笑っていた。




