第六十三話
・・・あの日。川の土手の橋の下で麗香が轟に手渡したのはまさしくこの試合の招待券だった。
「な・・・翠の練習試合・・・しかも相手はランキング4位、凍城麗香だと・・・?は・・・!?」
轟は驚愕するばかりだった。
「そう・・・轟がぜひ戦ってみろっていうから申し込んだんだ。そんなにいい席じゃないけどさ、見に来てよ。」
けろりと彼女は言った。
「お前・・・そんなに強かったのか?・・・いや。」
確かに、これまでの的確なアドバイス・・・それに強豪犇めくワールドチャンピオンズファイトで自分を殺せる相手がいないなどと口走る事を鑑みれば、それも頷けるかもしれない。
「・・・ふふ、まあ楽しみにしててよ。」
いつものように麗香は微笑んでいた。
「ファイターだったのか?・・・それもランク4位とは・・・」
・・・リングに立った翠もまた驚愕の目で麗香を見る。
「そうだよ・・・あ、始まるみたいだね。」
カアアン!試合開始の鐘が鳴る。
開幕、麗香が駆ける。
右に左にちょこまかと・・・何重にもフェイントを掛ける。その目にも止まらぬ動きを追うので観客達は精一杯だった。
だが、翠は違う。
(なるほど・・・非力さをカバーするだけのスピードとテクニックは持ち合わせているという事だな・・・だが・・・!)
瞬間、麗香が斜め下から喉元へ突きを放つ。しかしそれを見切っていた翠は容易く腕でガードした。
完璧に受け止めたはず・・・だが翠は妙な感覚に襲われた。
「・・・む!?」
やけに受け止めた手が痛む。びりびりと痺れる程だ。
彼が違和感を感じているその様子に気付いた客席の轟はニヤリと笑った。
(一番弱い所を見抜いて突く・・・それが麗香の技術だったな。いくら鉄壁の翠のガードとはいえ、そこを突かれれば流石にダメージを受けるだろう。)
しゃがんだり跳ねたり、麗香は不必要な程にフェイントを入れながら何度も何度も技を仕掛けた。見切りを駆使し確実に受け止めているはずなのに、じわじわ翠はダメージを受けていく。
(・・・く、この細腕の何処にこんなパワーが・・・!)
堪らず距離を取る翠。ここでラウンド終了の鐘が鳴った。
『さあこのラウンド・・・驚くやチャンピオンの一方的な劣勢でしたね。さしもの彼も女性には手を出せないという所でしょうか?』
『いえ、違うでしょう。・・・少なくともあの凍城はそんな次元の選手では無い。チャンピオンとて本気を出さねば十分敗北も有り得ますよ。』
解説の今井は顎をさすった。
「大丈夫かね、翠君。・・・相手が女の子だからといって油断してはいかんぞ。」
満田がドリンクを手渡しながら言う。翠はそれを一気に飲み干した。
「・・・ふう。わかってる、微塵もそんな事思ってはいないさ。・・・少なくとも今はな。」
想像以上だった。見た目以上の麗華の実力を翠もひしひしと感じとっていた。
勢い良く立ち上がり、彼は再びリング中央へと戻っていった。
次のラウンド、翠は攻勢を仕掛けるべく前に出た。
(兎にも角にも・・・こちらからも打たなければ・・・!)
だが、振りかぶり拳を放とうとした瞬間・・・麗香はぴょいんと跳躍し、翠の頭上を飛び越えていった。
「・・・何だと?」
慌てて振り返った翠は妙な光景に目を奪われた。なんと、凍城が宙に浮いているではないか。
「ふふっ、残念・・・これで完成だよ。」
瞬間、翠は自分の肉体に起こった異変に気付いた。
・・・体が全く動かない。コンクリートにでも閉じ込められてしまったかのように・・・身動きが取れないのだ。
『おおっと!?凍城選手が空中に浮き上がりチャンピオンの動きが完全に止まってしまった・・・これはまさか?』
『ええ、出ましたね・・・彼女の必殺技、ステルスストリングスが・・・!』
ステルスストリングス・・・それは目に見えないほど細微でありながら、人が乗っても切れない程の強度を持つ糸を設置し、相手の行動を封じ込める麗香の必殺技だ。不必要な程動き回っていたのはフェイントの為ではなくこれを仕掛ける為だった。
そしてリングに所狭しと張り巡らされたその糸の位置は彼女にしか分からないという。
「終わりだよ・・・!」
呟くと麗香は動けぬ翠へ襲いかかった。糸を蹴り宙を舞い、様々な方向から翠を攻め立てる。
どがっ!ばきっ!ぐしゃっ・・・!
誰が予想できたろうか。第2ラウンド開始から1分もしないうちに、翠は血塗れにされていた。
「ふふっ、そろそろかな・・・。」
微笑む麗香。だが・・・
「ああ、そろそろだな・・・」
何故か翠も笑い返した。
「凍城麗香・・・お前が超一流の実力者で良かったよ。おかげでたった2ラウンド足らずで再び俺の中に眠る勘を呼び覚ます事ができた。・・・そろそろ反撃しねえとな。」
そう言うと翠は全身に力を込めた。ブチブチと音を立て、彼を包む糸が引きちぎれていく。
「うおおお!」
気合いと共に翠は呪縛から脱出した。気圧された麗香はバックステップで距離を取る。
「力だけで脱出するなんて・・・でもまだリングには沢山糸が・・・」
まさに今、突っ込んで来る翠の胸元にも目に見えない1本の糸があった。このままいけばまた・・・
が、彼は糸に触れる瞬間それを拳で切り裂いた。
(・・・!?なんで・・・?糸の場所が分かってるとでも・・・)
麗華は困惑しながらも、何度も逃げ回り翠を仕掛けた糸に嵌めようとする・・・が、その度彼はやはりそれを切り裂いた。
どういう訳か、彼は完全に糸の位置を把握しているらしい。
(取り敢えず一旦空中に逃げて・・・!)
だが、地を蹴ろうとした麗香の体は全く動かなかった。・・・この全身を縛るような感じは・・・まさしく彼女自身のステルスストリングスだ。
すると翠は、立ち止まり拳を自身の前に突き出した。
・・・そう、その手には無数の糸が握られていた。麗香が仕掛けた糸を断ち切り掌握し、逆にリングに張り巡らせ彼女を罠に嵌めたのだ。
では何故翠がその位置を把握出来たのか・・・?
簡単だ。翠は動きを止められている間、じっとこれまでの麗香の動きを思い起こしていた。一方的に攻撃を受けながらも、ひたすら糸が仕掛けられたであろう位置を記憶していたのだ。
一流の棋士はお互いの打った手を最初から最後まで記憶しているというが・・・翠はファイトにおいて、それと同じ事をしたのだ。
現に、麗香もそうやって糸の位置を把握していた。彼女とて、糸が見えている訳では無い。類まれな記憶力で自分が仕掛けた位置を覚えていたのだ。
故に、翠に糸を仕掛けられた事にも気づく事はできなかった。
『これはどういう事でしょう?チャンピオン、凍城両選手共に停止してしまいました。』
実況同様、会場の皆が困惑し始める。
人知れず・・・翠は完全に試合を支配していた。




