第五十九話
例の轟と飛岩の大激戦から数ヶ月。
トップクラスの相手に勝ったとはいえ・・・急に強くなるものでもない。轟は順当にランクを40程まで落としていた。
しかし一つ妙な点があるとすれば、それは轟の勝率自体には殆ど変化が無かった事だ。
彼の以前の勝率は4割程。それは、急激にランクを上げた今でも変わらなかった。
それまで勝率9割を保っていた選手がランク100を超えた途端急に勝率を2割にまで落とす事もザラではない。それほどランクを上げるのは難しいのだ。
しかし轟は勝つ時は勝つ。例え相手が明らかにテクニックで勝る一流ファイターでもだ。そんな大番狂わせのある男として轟は一部のファイターからは恐れられ、一部のファンからは熱狂的な支持を得るようになっていた。
真ん丸の月が夜の土手を照らす。
その日も轟は、夜遅くまでトレーニングに励んでいた。
翠への挑戦・・・いつになるかは分からないが、明確な目標ができた事で彼のやる気は段違いに跳ね上がっていた。
「うおおっ!」
思い切りサンドバッグを殴り付ける。ガシャンと音を立てそれは大きく揺れた。
「・・・くっ、このくらいぶち抜かねえと・・・」
轟は苛立ちながらもう1度拳を引いた。
その時、彼の後方から透き通る様な声。
「それじゃあ・・・駄目だよ。」
「・・・なに?」
振り返ると、土手の上からこちらを見る幻想のような少女が居た。
短めの髪、中性的な服装。それでいてしっかりと女だと分かるのは整った顔立ちからだろうか。
何処か儚げで・・・吹けば飛びそうな・・・。風に髪を靡かせ月明かりに照らされる姿は正に幻想のようだった。
何故こんな時間に。
何故こんな所に。
様々な疑問が湧くが、取り敢えず轟が真っ先に尋ねたのはこれだった。
「どういう意味だ・・・それじゃあ駄目ってのは。」
彼女は何も答えずゆっくり土手を降り・・・先程のサンドバッグの前に立った。
そして、そっと人差し指でサンドバッグに触れる。すると・・・
ぷすり。その指は豆腐にでも触れたかのように容易く突き刺さった。
「何だと・・・!?」
驚く轟の横で、少女は指を引き抜く。小さく開いた穴から砂がさらさらと零れていた。
「大事なのは・・・一番弱い所を突く事。どんな物にだって、それはある。」
「・・・お前は何でそれが分かったんだ?」
「見ればわかるよ。」
当然のように言う彼女に、轟は注意深くサンドバッグを観察してみた。確かに、糸がほつれ破れそうな所がある。
(ん・・・ここか・・・!?)
もう1度その点にパンチを入れてみる。・・・するとどうだ。
サンドバッグは引き裂け、中の砂がどさーっと零れ落ちた。
「・・・!見たかよ今の!!お前が言ったのはこういう事だろう!!・・・っ!?」
歓喜し振り向くが彼女はもう居なかった。
きょろきょろ見回すがその姿は何処にも無い。そもそも本当に彼女が居たのかさえ・・・。
気づけば月は雲に覆われていた。
・・・次の夜。またも月は明るく辺りを照らしていた。
昨日のは何だったのか・・・それは暫く轟の頭に残っていたが、トレーニングに励む内に気にならなくなっていた。
この日のトレーニングメニューはシャドーファイティング。仮想敵をイメージして実際に戦ってるかのように動くのだ。
(右にフェイントを入れ奴の攻撃を躱し・・・今度は左から・・・)
イメージの通りに、右に左に動き回る。
「随分強い相手と戦ってるんだね。」
「うおっ!?」
突然掛けられた声に轟は体勢を崩してしまった。
昨日の少女が、いつの間にかすぐ側に立っていた。
「お、お前・・・いつからそこに?」
「少し前からかな、君は全然気づかなかったけど。それだけ集中してたって事だね。」
にこりと、彼女は小さく笑った。
「お前、随分強そうな相手と戦ってるって言ったな。わかるのか?」
「うん、君の動きを見てれば何となくね・・・当たってた?」
膝を立てて座る轟の前で、少女は破れたサンドバッグを弄んでいる。
「ああ、但し本物はもっと強いけどな。俺のパンチなんか当たりはしない。」
びしっと、轟が拳を突き出しながら言う。その頭に最大の敵の姿を思い浮かべながら・・・。
「君のパンチ・・・何だかとっても打ちづらそう。」
「あん?」
言われて轟は気付いた。確かにそうかもしれない。
元々彼のパンチは一撃重視の大振り不良殺法。だが、厳八は彼にコンパクトでスピードを重視したファイト用のパンチを仕込んだ。
結果として、彼のパンチはどっち付かずかつ打つ時に違和感を感じるような不出来な物となってしまっていた。
「ちょっと構えてみて。」
言われるがまま構えを取ると、少女は轟の右手をほんの少し斜め下にずらした。
「はい、これで打ってみて・・・相手の目の下を狙うようなイメージで。」
少女は分かりやすいように轟の前方に立った。勿論パンチが届かない距離で・・・。
「そらっ!!」
びしゅっ!!
指示通りに打ってみて、轟はその違いをはっきり感じた。
まず音が違う。明らかに空気を切り裂くような・・・。
そして打ちやすさだ。前の打ち方のような肩に余計な力が入っている感じもないし、引き戻しも非常にスムーズにいく。
「どう・・・?」
反応がわかっているかのように、少女は微笑みながら訊いた。
「ああ、すげえな・・・。まるっきり生まれ変わった気分だぜ。」
びしびしと、何度も放ってそのパンチの感触を確かめる。
「それは良かった。」
そう言うと彼女はその場から立ち去ろうとした。慌てて轟が引き止める。
「待て!待ってくれ・・・。俺は波風轟ってんだ。お前は・・・?名前、なんて言うんだ。」
「麗香・・・凍城麗香。」
「麗香・・・か。・・・麗香、また会えるのか?」
「うん、きっと多分・・・また会えるよ。」
そう言うと彼女はにこっと微笑み、夜の闇に消えていった。




